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マーティン・スコセッシの新作、「ヒューゴの不思議な発明」は、タイム・スリップもの、マッド・サイエンティストもの、何もかも入り込みの3D映画なので、いろいろな趣向が組み込まれている。

映画の草創期、ジョルジュ・メリエスのトリック映画に見られるように、タイム・スリップものが存在した。ついしばらく前も、「マイ・ラヴリー・フィアンセ」(ジャン=マリー・ゴーベール監督)のような映画があった。中世の「騎士」(ジャン・レノ)が、魔法使いのクスリのせいで、現代にまぎれ込んでしまう。まあ、そんなSF映画。
時空を越えて、別の世界に投げこまれたらどうなるか。私たちは、サイレント映画からあきもせず、このテーマ、異次元世界におかれるというシチュエーショナルな映画に眼をみはってきた。

映画の背景になるパリ駅の大時計のメカニックな構造。これを、たとえば、「大時計」(ジョン・ファロー監督/1948年)の時計と比較したら、それこそ、ジョルジュ・メリエスの「お月さま」と「アポロ 13」(ロン・ハワード監督/1995年)ほどの差があるだろう。比較も何もあったものではない。
ついでにふれておけば――「大時計」は、レイ・ミランド、チャールズ・ロートン主演。原作は、ケネス・フィアリング。とてもいい作家だったが、これだけで消えてしまったっけ。映画もなかなかいい映画だったが、もう、誰もおぼえていないだろう。

驀進する汽車がつっ込んでくるパニック・シーン。これも「ヒューゴ」では、リュミエールの実写フィルムが「伏線」になっている。私たちは、数多くの汽車や地下鉄のパニック・シーンを見てきた。だから、いまさら3D映画で見せられても、余り驚かない。
むろん、CG技術を駆使した「ヒューゴ」のスペクタクルは、1953年に登場した3D映画とは、これまた比較にもならない驚異的な映像になっている。

スコセッシの「ヒューゴ」にはリュミエールの活動写真のほかに、もう一つ、機械人形という「からくり」のもつ妖しい倒錯の世界までからんでいる。
はるかな昔の「メトロポリス」(フリッツ・ラング監督/ブリギッテ・ヘルム主演/1927年)の機械人形。

全身、ギラギラの金属の裸像だったブリギッテ・ヘルム。「彼女」は、大恐慌と破局的なインフレーションという資本主義の危機と、すでに地平の彼方に姿を見せはじめているナチスの恐怖の隠喩ではなかったか。
もし、こういういいかたに少しでも意味があるとすれば――スコセッシの機械人形は、リーマン・ショック以後の、デフレーションの危機的な状況(これまた資本主義の危機だが)のなかで、心臓にハート形の鍵を嵌め込めば生命力を回復する。
心臓にハート形の鍵を嵌め込む。
いかにも、アメリカのオプティミズム。この機械人形が「いのち」をもつかどうかは、かつてのフランク・キャプラの「我が家の楽園」、「群衆」などに見られるイデオロギーに通底するだろう。
アメリカ再生というハリウッド的ダイアレクティックス。

「ヒューゴ」の機械人形は「メトロポリス」の機械人形よりもはるかにエロティックで、しかも人間的な表情をもっている。スコセッシがどこまで意識して演出したかわからないけれど。

私はスクリーンとはまるで無関係なことを考えながら、この映画を見ていた。
それだけで楽しかった。
(つづく)