3月10日が近いので、もう一度、書いておく。
墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。物見高い連中がわれがちに押し寄せるだろう。
私ですかい?
せっかくでござんすが、ご見物は遠慮させていただきやす。へえ。
少年時代の私が住んでいた小梅町、吾妻橋二丁目は業平橋のすぐ近くで、小梅町から今のスカイツリーまでほんの数分、吾妻橋二丁目からは、ほんの二、三分の距離だった。
1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による大空襲で壊滅した。
この大空襲で、私の隣組(全体で30名ばかり)にも半数近く死者が出た。すぐ近くの「お妾横町」の住人たちは、ほとんど全部が焼死している。
なんとか焼死しなかった私は、まだ煙がくすぶって、焼死体が折り重なっているなかを近くの駅に押しよせる群衆を見た。亀戸にむかう大通りは無数の死人で埋まり、上野、御徒町、鶯谷は無残に焼けただれて、罹災者たち、さらには帰宅困難者たちがひしめきあっていた。
今と違って、救援物資があるはずもない。食べるものもなかった。咽喉がかわききっていたが、水一滴もなかった。
少年の私は、公園に行けば水道があると思って、歩き出した。公園で見たのは、この世のものとも思えない地獄図絵だった。
着ているものが焼けて、茶色、暗褐色、黒い焼死体が、両手をひろげてゴロゴロころがっている。
それを見ても感情が動かなかった。ただ、水が飲みたいと思って歩きつづけた。
公園に水道はあったが、セメントが焼け落ちて、水が出るはずもなかった。その近くの公衆便所の中に、やはり黒こげの死体が倒れ、その下に茶色の死体がひしめきあっていた。
その日、私たち家族は何も食べなかった。
焼け跡は、どこに行っても、食料や水を探す人たちが歩いていた。誰もが着のみ着のまま、焼けこげた服やモンペ姿、ときには下着も焼けて赤くなった肌をさらした人たちばかりで、墓場をうろつくゾンビのようにさまよい歩いていた。すべてが焼きつくされている。何もかも焼けているので、吾妻橋から神田、九段まで、ひろびろと見通しがきいた。下町全部が焼きはらわれたので、見はらしがきくようになっていた。
(つづく)