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翻訳家としての渡辺 温については、ほとんど知らなかった。

「渡辺 温全集/アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)で、H・G・ウェルズ、オスカー・ワイルド、それに、黒岩 涙香訳をリライトした作品などを読んだ。
私は(オスカー・ワイルドは知っているが)原作を知らないので、翻訳については批評しないが、渡辺 温が修行時代(アプレンタイスシップ)に、こういう仕事をしていたことに感心した。
それともう一つ、女性名義で、小説を発表していることだった。これも、いまの作家たちには考えられないことだろう。
こういう角度からも、あらためて渡辺 温を考えることができる。

私が関心をもったのは、渡辺 温が、いろいろな俳優や女優たちに言及していることだった。
エミール・ヤニングス、コンラッド・ファイトの比較、あるいは、チャップリンにたいする否定的な見方など。
日本の映画でも、畑中 寥波、石井 漠、伊沢 蘭奢(らんじゃ)とならんで、戦後の「民芸」で舞台に立った細川 ちか子をあげている。(「疑問の黒枠」を見る)

「アンドロギュノスの裔」の主人公が、あこがれたのは「ベルクナルにも劣るまいと評判の高い活動写真の悲劇女優」という。この「ベルクナル」は、おそらく、エリザベート・ベルクナーだろう。

「今全盛のドロシイ・ダルトン」(「或る風景映画の話」)となれば、ブロードウェイの大プロデューサー、アーサー・ハマースタインと結婚して、スクリーンから去った女優(後年のミュージカルのビッグウィール、オスカー・ハマースタインの母親)とわかる。

渡辺 温といっしょに、サイレント映画の女優たちのことを話してみたかったな。
美少女、メァリ・マイルズ・ミンター、あるいは、妖艶なナジモヴァについて。
私の推測では――ニンフォマニアックだったバーバラ・ラマールなどは、好きではなかったのではないか。それでは、ビーブ・ダニエルズ、クララ・ボウたちは?

私は、むろん、渡辺 温の見た映画を一本も見てはいない。しかし、二十年、三十年のタイムラグはあっても彼がとりあげている人々も、少しは知っている。私は、及川 道子さえ見ているのである。そんなことが、渡辺 温を身近に感じさせているかも知れない。

渡辺 温は、1930年(昭和5年)、2月9日、原稿の依頼のため谷崎 潤一郎を訪問した。同行したのは、後年、ミステリーの翻訳家として知られる長谷川 修二。
その帰途、二人の乗ったタクシーが、国鉄(当時、省線)の貨物列車と衝突した。渡辺 温は頭部に重傷を負って、病院に運ばれたが、そのまま亡くなった。享年、27歳。

今年、温の姪の渡辺 東さんの編、「渡辺 温全集/アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)が出版された。
その出版を記念して、画廊「オキュルス」で、オマージュ展が開かれた。渡辺 東さんにおめにかかって、しばらく温の話を伺った。
私にとっては、親しい作家に会えたような気がして、うれしかった。

縁あって渡辺 温を読む。いまさらながら、惜しい才能が失われたことを悲しむ。