私は、他人の翻訳を批判しない。
そんな暇があったら、黙って、別の本を読んでいたほうがいい。
それでも、たまに、もう少しましな翻訳ができなかったものか、と思う本もある。
本通りには鉄製のアーチが備え付けられ、そこに取り付けられたネオンサインには<歓迎世界最高の小都市リーノー>と書かれている。
ある長編の書き出し。これを読んだ瞬間に、これはダメだな、と思った。翻訳は、すぐにつづけて、
静かな小都会である。車のフロントガラス越しに、十二ブロック先の、本通りの端近くまでが見える。この高度では何もかもが眼に鮮やかに映る。空には染み一つなく、車の計器盤から流れ出る朝のジャズ音楽は生き生きとしている。きれいな町である。賭博場の豪華な建物は、どれも現代風で、薄い灰色をしており、どのネオンサインも陽の光のなかで輝いている。交通信号が変わり、車は慎重に進む。だが、一ブロック進むと、警官に停止させられる。警官は歩道を離れて、反対方向へ行くトラックを停め、一人の老婆に付き添ってゆっくりと通りを横切る。老婆はしずかな雰囲気の銀行に入る。その隣には上品な婦人洋装店があり、更にその隣の店には、窓がらすに金文字で<さいころ賭博>とある。<競馬賭博>
を呼び物にしている店もあれば、<カジノ>の店もあり、<結婚指輪>の店もある。停車しているわずかの間に、かなり騒々しい音が聞こえ、そちらに人の注意が向く。左手の、店内の煌々とした賭博場から騒音が通りへと伝わり、歩道の上の方では店のネオンサインがきらめいて<大当たり>とでる。それは店の中のどこかで客が満点を射止めたことを示している。
これは、この小説の舞台になっているリノの描写。
語学的には間違いのない訳だが、なんという魅力のない訳だろう。それに、この訳は――ぜんぺん、説明にすぎない。原作者は、これからはじまる小説に、いきいきとした命を吹き込んでいるのだが、それがこの訳にははじめから欠けている。
作者はアーサー・ミラー。じつは「荒馬と女」の原作だが、日本訳の題名は「はみだし者」となっている。
1989年7月刊。もう4半世紀も昔の本だから、営業妨害にはならないだろう。
原題の「ミスフィッツ」は日本語になりにくいことばだが、「はみだし者」とはおそれいった。アーサー・ミラーが劇作家なので、全編、いきいきとした会話がつづくのだが、
「荒れ狂った牛が野放しで走っているというのに、俺はあの若僧を助けに飛び込んだんだぜ――君は何を話しているつもりなんだ? 俺だって、今こんなところに坐っているのは、べらぼうに運がいいんだぜ、君にはそれが分らんのかね?」
「分るわ。そうだったわね」彼女は突然彼の手を取って、それに口付けし、自分の頬に彼の手を押し当てる。「そうだったわね!」彼女は彼の顔に接吻する。「あんたは実にいい人だわ……」
映画では、マリリン・モンローが、クラーク・ゲーブルの手をとって、キスするシーンだが――
私の「みんな我が子」の訳も、きっとこんな程度のものだったに違いない。自分では、けっこういい訳のつもりでいたのだから、救いようがない。
今の私は、菅原 卓の仕事、翻訳に対して批判をもたないわけではない。しかし、駆け出しの私を叱責して、戯曲の訳が上演に不適当な訳だということ、セリフがセリフとして生きていないことを、逐一、完膚なきまでに批判してくれた菅原 卓には、いまでも感謝している。私は、ふるえあがった。
その後、私は「中田君、きみ、腹を切りなさい」ということばの重みはけっして忘れたことがない。