当時、私は、生活のために翻訳をするようになったが、いつか、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳してみたいと念願していたのだった。
私のような駆け出しの新人が、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳せる機会はなかった。
それでも、アーサー・ミラーの戯曲を訳すことが出来たのは――私にとっては僥倖というべきだったろう。
当時、私は小さな劇団で俳優の訓練用に、アメリカの短編を訳していた。まだ日本では誰も読まなかったヘミングウェイという作家の「キリマンジャロの雪」という短編だった。私は、ヘミングウェイがどういう作家なのかも知らず、ただ、この短編は、いろいろなシーンが出てくるので、若い俳優/女優たちに読ませるのに都合がいい。そんな単純な理由で訳したのだった。
たまたま、この時期、「新協」から脱退した俳優の三島 雅夫が独立の劇団を起こして、その旗揚げ公演に、アーサー・ミラーは「セールスマンの死」で世界的に知られていたが、三島 雅夫が選んだのは、それに先立つ戯曲、「みんなわが子」であった。
その翻訳者をさがしていて、たまたま、私の「キリマンジャロの雪」を読み、「みんなわが子」の翻訳を依頼してきた。
私は、三島 雅夫が私を選んでくれたことがうれしかった。それまで芝居の台本の翻訳など経験もなかったが、翻訳できないことはない。そう思った。
ここから先は、今思い出しても、恥ずかしいことになった。
私の翻訳は、まったく使いものにならなかった。
稽古が途中で中断された。
演出家は菅原 卓。(私にとっては、恩師にあたる内村 直也先生の実兄にあたる。)私は、急遽、菅原 卓に呼びつけられた。三島 雅夫が同席していた。
「中田君、きみ、腹を切りなさい」
菅原 卓の声はきびしいものだった。私は、一瞬、何をいわれているのかわからなかった。しかし、私がなにか重大な失態をおかして、菅原 卓が激怒しているらしいことはわかった。
そして、菅原 卓は、私の訳をとりあげて、戯曲の翻訳としてまったく使えないことを次々に指摘して行った。
私は、それまでの自信がケシ飛んでしまった。穴があったら入りたい、どころではなかった。どうしょう、どうしょう。私はただうろたえていたし、菅原 卓の指摘する誤訳、拙劣でこなれていない訳、ようするに、作品を読みこなす力がないのに、戯曲を訳すような無謀、無恥な自分の厚顔に気がつかされたのだった。同席していた三島 雅夫が、憫然たる表情で私を見ていたことは覚えている。
けっきょく、菅原 卓が全編に手を入れることになった。公演のポスター、パンフレットに、私の名は共訳者として残ったが、実質的に、私の訳は一行も残らなかったといってよい。
このときから、私は、翻訳の仕事で、原作者に対する敬意は、誤訳をしないこと、というより、原作に対して、おのれの才能のありったけをあげて肉迫することなのだと覚悟するようになった。
(つづく)