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 ニューヨークの冬。
この界隈でも評判の美人と結婚している主人公、ダン・フォン(馮丹)は、妻のジーナ(吉娜)がやっている宝石店に寄ってみようと思って、ホテルのロビーにあるバーに行く。このバーでフロントの責任者、ユイ・フーミン(余富明)と親しそうに話をしていた妻を見てしまう。相手は、主人公が結婚する前に妻に言い寄っていたらしい。
主人公は、妻の浮気性に、ぶつくさいいながら、ふたりにみつからないようにその場を離れる。

ジーナはすらりと背が高く、鼻筋が通って、ふたえまぶたに繊細な口もと、肌も絹のようになめらかというのに、生まれてきた子どもは、器量がわるい。ダン・フォン自身も、美男で、ふたりがそろって人前に出ると、注目のまとになる。ところが、昨年、娘のジャスミンが生まれてから、ずっと妻の不貞をうたがっていた。
美男美女の間に、こんな不器量な子どもがうまれるはずがない。ひょっとすると、富明がほんとうの親かも知れない。もし、そうなら、結婚後のジーナは富明と切れていないのではないか。

短編、「美人」は、妻の浮気を疑う夫の話だが、ありきたりの「コキュ」の嘆きを語ったものではない。夫は私立探偵を雇って、妻の素行を調べさせる。妻は、夫に疑われていると知って傷つく。
この私立探偵は、まるでひと昔前の俗流ハードボイルド小説に出てくるような私立探偵で、捜査の途中で、フーミンにノサれてしまう。しかし、妻の履歴に関しては何もわからない。何もわからないことが、かえって不思議だという。

そればかりではなく、主人公も、その界隈のヤクザに襲われてしまう。

この短編のおもしろさは、まさに短編としての起伏があざやかで、アメリカにやってきて、おなじ中国人でも市民権を獲得した階層と、過去を伏せて入国したため、国外追放の処分を受けることを恐れて生活している階層の「格差」がうきぼりになってくる。
実際には、もっと複雑な要因があって、ジーナがどうして「美人」になったかという理由とかかわってくる。

「すばらしい墜落」の作家、ハ・ジンは、現代アメリカの華僑の直面している状況を、しっかり見つめながら、アメリカに住む中国人の生活を描いている。しかし、たんに華僑の人生喜劇(ヒューマン・コメデイ)を描いているわけではない。華僑といった国籍、人種、あるいは性差別を越えて、現在の人間の本質的な悲しみを、いつもどこかコミックにとらえているような気がする。
つまり、私には、ハ・ジンは、チェホフから、ジョイス・キャロル・オーツに到る短編小説の伝統の最良の部分を代表しているように見える。
(つづく)