(つづき)
好きな女のところに通いつめたが、なにせ人にしられぬ恋路、犬までがあやしんで吠えかかって、毎晩、さわがしい。犬なんかいっそブッ殺してやりたい。手紙を出そうかとも思ったが、犬を手なづけたほうがいい、食べものをくれてやって、なんとか、シッポをふるところまでこぎつけた。この憎らしい関守に、ものを与えようなどと、心づかいをするのもひと苦労。女のほうは――誰とも知らない人が、いつもの時間ぴったりに、尺八を吹いて通って行く。今宵もあなたにあこがれてきています、という知らせでもあろうか。古歌にいう、シギ立つ沢の秋の夕暮れなどを連想して、やさしい殿方だよ、と思ってくれるかもしれない。
やがて、夜空の星が遠くかたぶき、空を吹きわたる風の音もさびしくなって、籬(まがき)のかたわらに立ちつくして、他人のいびきが聞こえてくる頃、女の寝所のに、しのびやかに、着物のすその音がして、ああ、ついにそのときは至れり、と胸がときめき、これまでどんなに長い時間待っていたか、と、たもとを引く手もふるえ、絹のような下腹部をさぐりさぐり、からだを横ざまにひそかに入って、音をたてないように迫り、声も出さずにため息したのも、心ときめくうれしさ。
からだをあわせようとして、枕を傾け、行灯(あんどん)を離すと、女の顔がほのかに見えて、さし向かいながら、床についているような気がしない。長い間、つれない仕打ちばかりだったと責めたり、心をつくしてお慕い申しておりましたのに、などと恨みも交えて語りあう。いつわりの多いおかたなど、相手にするつもりではなかったのに、いつかのお手紙から、あなたが好きになりました、と顔を赤くするのも、言葉多く語るよりもずっとまさっている。
まだまだ続くのだが、鬼貫の「戀愛論」はこれくらいにしておく。
鬼貫は、追悼の句を多く詠んでいるか、恋の句は少ない。
契不逢戀
油さし あぶらさしつつ 寝ぬ夜かな
さしていい句でもないが、ここにあげておく。
題は「ちぎりて、逢わざる恋」なのか。逢わざる恋をちぎりて、なのか。その読みかたで、私の想像はかなり違ってくる。
やや遅れて、「遇不逢戀」という狂歌があって、
うつり香の残りて としをふる小袖
今は身幅も あはできれぬる 於保久 旅人
きみに逢ふ 手蔓も切れて うき年を
ふる提灯の はりあひもなし 網破損 はりがね
こんなものより、鬼貫の句のほうがずっといい。