鬼貫の俳論、『ひとりごと』に、「戀」というエッセイがある。
ただし、冒頭から――「心は法界にして、無量なる物ながら、一念まよふ所は、大河の水のわずかなる塵によどむがごとし」といった文章が切れめなくつづくので、すっきり頭に入りにくい。
エッセイ自体は、それほど長くないのだが、もう少しわかりやすく、現代語に訳してみよう。
逢ったこともないのに、どこどこの土地に美しい女がいると聞いただけで、もう忘れられなくなる。一度遊んだだけの遊女から、手紙が届いたりして、その筆づかいを見て、やさしい女心を思う。あるいは、茶屋の娘の接待する物腰のきよらかさがうわさになっているので、せめて水の一杯でも所望してその姿を見届けよう、ただ通りすがりに、窓格子からちらっと顔を見せたりすれば、近くの商店に立ち寄ってその店の品物の値段を聞くふりをして、さりげなくめあての女の家名を聞いたりする。
春、お花見の頃、あるいはお祭りやお寺参りの頃、魅力のある女たちが立ちあらわれる。そんな女たちに恋をしては、あわよくば首尾を遂げようとおもっていると、にわかにつよい雨ふりになって、傘をさしつさされつ、あるいはタバコの火を借りたり、ときには近くの道を教えたりする。そんなきっかけから、お互いの心のふれあいができたりする。そんな出会いのなかでも、女のうしろ姿がひとしお美しいのに心を惹かれて、すぐさまあとを追いかけ、足を早めて女の前に出て、後ろ姿に似あわぬブス、あまりのことに落胆するというのもおかしい。あるいは、ひとを恋しても自分から口に出さないまま、ふつうのつきあいをしてきて、いつか折りを見てうちあけようと思って、いつしか時間がたってしまった。この思いはいつかうちあけようと思っていると、何かのことばのはしはしから、相手もこちらの恋心を承知しているとわる。そのうれしさよ。
また、メモをもらって、いそいでふところに隠した。人目につかない隅っこで、紙の皺をのばして読もうとする風情は、まるめてポンと投げ捨てられるよりもずっといい。
鬼貫の「戀愛論」はもう少しつづく。
(つづく)