1965年2月から3月にかけて、私はヴェトナムにいた。
そんなある日、母に手紙を書いた。ほんらいなら公表すべきものではないが、ある親子の間にかわされた、わずか一通の手紙なので、ここに公開する。
お母さん
毎日ぼくのことを考えていてくださるのでしょうね。無事に旅をつづけていますからご安心下さい。
サイゴンの印象は、やはりぼくにとって強烈なものでした。久しぶりで、自分がほんとうに生きているような実感がありました。それを小説に書いてみたいのですが、うまく行くかどうか。
ユエに行きましたが、ここでは一生忘れられない経験をしました。ユエの街はとても小さい町で、かつての王城のあとが、それこそ夏草のなかにむなしく残っているだけなのです。
ぼくは町を歩き、歩き疲れて、一軒の酒楼に入ってビールを飲みましたが(水のかわりです。水質がわるいので、その頃ひどい下痢にくるしみつづけでした。)人なつっこいおじいさんが寄ってきました。むろん話は通じません。すると、あと二人(おまわりさんと地方裁判所の書記ということがわかりました)中年の男たちが僕に寄ってくるではありませんか。
書記の人がフランス語を話すので、すっかり仲よしになりましたが、ぼくがビールをおごったら、その晩、六時におじいさんが家に招待するというのです。何しろ知らない土地ですし、聞けばユエの街ではなく、かなり離れているらしく、夜なのでこまったなと思いました。断ろうとしたのですが――その前に自分の家へきて泊まれというのを断ったものですから――どうにも理由がなく六時に会うことにしました。
六時に旗亭に行ってみると、おまわりさんがひとりいるだけです。この人はフランス語も英語もダメで、何が何だかわからないし、旅費としてかなりの金額をぼくは身につけています。危険な行動になるかも知れないと覚悟をしました。
ユエの街には大きな湖(ラツク)がありますが、もう日が暮れかかり、船も通らな
いのです。暗い水面を見つめながら、この湖の付近にもヴェトコンが出ると聞いたことを思い出したりして不安でした。
やがて村につきました。(トレガという貧しい村です。)貧しい村でした。ところがそこに、昼間のおじいさんが村の人を八人ばかり招んで待っていたのです。
お互いに言葉は通じませんが、いくらか安心しました。やがて書記の人がきてくれて、これが純粋にぼくを接待してくれる集まりだということがわかりました。貧しい食事でしたが、ほんとうに心あたたまる思いをしました。十時近くまでいましたが、やがて最後におなじ席にいたおばさんが、私のためにヴェトナムの歌を歌ってくれました。ヘタな歌でしたし、意味も何もわからない歌ですが、それはそれは哀傷を帯びた歌で、黙って聞いているうちに、いろいろな感情がむねに迫ってきて思わず涙ぐんでしまいました。こんなに質朴な人たちが、ぼくのために集まってくれたこと、そして、こんなにやさしい人たちが、今、はてしない戦乱にくるしんでいるのだと思うと、その哀しみが自分に揺れ返ってきて、大きな感動が測測と迫ってきました。酒の酔いもあったのでしょうし、それまでの不安な思いが消えたこともあったのでしょう。旅先で孤独だったことの感傷もあったのでしょうが、涙がと
めどなく頬をつたわりました。
すると、おばさんも泣きながら歌いつづけたのです。帰途は、若いヴェトナム兵が一人、ぼくを送ってくれましたが、彼は私の名を聞いて舟の上で即興で歌を歌ってくれました。これも意味はわかりませんが――ある日、私の村に見しらぬ日本人がきた。名はナカダという。彼のために、私たちは一席の宴を張り、XXおばさんが彼をもてなすために歌を歌ったが、ナカダは感動のあまり泣いた。日本人が私たちのために泣いてくれたのだ――そういう意味に間違いないと思います。これも切々たる哀調を帯びた歌でした。
この夜のことは一生忘れられない経験になるでしょう。おそらく、ぼくのことは、あの貧しい村では、いつまでも語りつがれて、いつか一つの伝説になるような気がします。
サイゴンや、バンコックや、香港のことはまたあとで書きます。さよなら。お元気で。
中田 耕治
私にとって、ヴェトナムの印象は「強烈なもの」だった。しかし、この時期、私はヴェトナムに取材した小説を書くことはなかった。
はるか後年、ヴェトナムを舞台にした長編を書いたが、新聞に連載しただけで、そのまま出版することがなかった。
サイゴンの印象は、中編、「サイゴン」だけは、私の撰集(三一書房版)に収めた。
この手紙は、亡くなった母の遺品を整理していて文箱のなかから見つけた。焼き捨てるつもりだったが、私が母にあてて書いたわずか一通の手紙なので、ここに残しておく。