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私の好きなことば。

私はたしかにここにいるが、私はすでに変化している。すでにほかの場所に
いるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。

ピカソのことば。

ピカソは、ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる、という錯綜した女性遍歴を重ねてきた。ピカソは、相手の女性が変わるたびに、作風までが変わってゆくという。
「青の時代」から「バラ色の時代」に移ったように。

私はピカソが好きなので、ピカソのことばをパラフレーズして――私も「ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる」といいたいところだが、現実の私にはそんなことはあり得なかった。
ただ、教育者としての私は、おなじようなことを考えてきた。ある時期、たしかにここにいるが、やがて変化する。気がついたときには、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。

私の大学で、ある先生がシャーウッド・アンダスンの短編を教えていた。不勉強な学生だったから、二、三度、このクラスに出ただけで、あとはサボッていた。
翌年、単位をとる必要があっておなじ先生のクラスに出た。
テキストは、おなじシャーウッド・アンダスンの短編だった。
たまたま二年つづけてこのクラスに出ていた学生はいなかったはずである。その教授は黒板に、おなじ箇所でおなじ訳を書き、おなじ冗談を聞かせてくれた。一年前の講義と、まったく変わっていない内容に私は驚いた。

はるか後年、私はおなじ大学で講義をつづけることになった。
一度でもおなじことをくり返すような講義をしないことだけを心がけた。

やがて私は、翻訳家の養成を目的としたクラスで、授業をはじめた。せいぜい、二年ぐらいのつもりだったが、20年以上も、この授業をつづけた。
おなじテキストをくり返して教えたのは、ギャビン・ランバート、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージなど数人の作家だけだったが、おなじテキストを読みつづけることが生徒にとって有効と信じたからだったし、くり返して読むことで自分の「読み」が深くなると思ったからである。

生徒は、私の教室にきている。たしかに教室にいるが、私のレクチュアをうけたときから、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。
おこがましいいいかただが、私の教育は、いつもその「場所」をたしかめることだったと思う。

私は翻訳を教えたのではない。それぞれのひとの才能を発見しただけなのだ。