ヘミングウェイはプラード美術館に入ると、たくさんの絵に眼もくれず、特別な絵だけを見たという。
巨大なイタリア絵画ばかりが展示されているメイン・ホールから横に入ると、小品だけを飾った室内に、アンドレア・デル・サルトーの絵が二枚並んでいる。その一枚、「ある女の肖像」の前に立ったヘミングウェイは、いつまでもこの絵を眺めていたらしい。
私もこの絵が好きだった。大きな絵ではない。やっと8号ぐらいの絵だが、すずしい瞳を真っ直ぐに向けてくる若い娘。そのふくよかな胸もとが眼の前にあった。ロンバルディアの農家の娘だろうか。深いえりぐりのあわいに、乳房の谷間が刻み付けられている。その乳房のふくよかさと、純白の輝きは、ルネサンスの女の清純な美しさそのものといっていい。
若き日のピカソもこの絵は見たのではないだろうか。
私が大切にしている家宝がある。
ピカソのもっとも初期の、デッサンのノート。もっとも自分で買ったわけではない。作家の五木 寛之さんから頂いたものである。
この手帳は、1989年3月12日から22日にかけて、少年ピカソが、デッサンの練習のためにいろいろな対象を描き散らしたもの。手帳というより、メモ帖といったもので、タテが10cm、ヨコ12.5cm、表紙は手垢で薄汚れている。
大切にしまってあるので、めったに眼にすることはないが、これを手にするたびに、私は五木 寛之の友情に感謝している。