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一年前に友人の劇作家、西島 大が亡くなった(2010年3月3日)。

彼の訃報を新聞で知ったのだが――

肝細胞ガン。享年、82歳。1954年、劇団「青年座」創立メンバーの一人。
「昭和の子供たち」、「神々の死」などのほか、映画「嵐を呼ぶ男」、テレビ・
ドラマ「Gメン’75」の脚本を手がけた。

20代のはじめの頃からの友人で、一時は親友といっていいほどだった。
西島 大は伏せていたが、「日本浪漫派」の詩人、田中 克己の実弟だった。敗戦の日に皇居前で自決しようとしたほどの憂国少年だったという。
私は、内村先生の「えり子とともに」のスタッフだったが、西島 大は内村先生の口述筆記をしていた。そんなことから、親しくなったのだが、当時の西島 大のことは、私の『おお 季節よ城よ』のなかにチラッと出てくる。

私がはじめて舞台の演出を手がけたのは、発足してまもない「青年座」の公演で、西島 大の「メドゥサの首」という一幕ものだった。
この芝居に東 恵美子、山岡 久乃たちが出たためか、「芸術新潮」に劇評が掲載された。「芸術新潮」に劇評がでるのはめずらしいことだった。いくらか世間の注目を浴びたのかも知れない。
私は「青年座」で、西島 大の「刻まれた像」という一幕ものを演出したが、これは失敗だった。戯曲のできがよくなかったというより、私の演出がひどかったせいだろう。

私は、芝居を終わったあと、出演者たち一人ひとりにダメ出しをしたり、部分的に稽古をやり直して、明日にそなえた。終演後の手直しだったから、11時を過ぎていた。

楽屋口を出たところに、西島が待っていた。
失敗した芝居の劇作家と、その演出家の気分がどういうものか想像できるだろうか。
まして、お互いに友人で、お互いにそれなりの自信をもって初日を迎えたはずだった。
西島が私を心配して劇場に戻ってきたとき、私が芝居の稽古をしてきたことはすぐにわかったはずだった。
お互いに何もいわなかった。

まっすぐに、西島が行きつけの酒場に行った。

私はあまり酒を飲む気分ではなかった。芝居のことが頭から離れなかった。どこがわるいのか。台本のできがよくないのか。もし、そうなら作者にどう書き直してもらえばいいのか。私の演出はどこで間違ってしまったのか。
俳優や女優たちがよくなかったとして、どういう指示をあたえればいいのか。その指示がまちがっていたらどうなるのか。
無数の疑問が心のなかにわきあがってくる。
じつは、この芝居の娘役に、私が教えていた俳優養成所の女の子を起用していた。本人も、私の抜擢にこたえて、いい芝居をしていたが、ベテランたちのなかでは、どうしても見劣りがする。私は、それをカヴァーするために、いろいろと工夫をしていた。それがあまり効果がなかったのかも知れない。
私は、芝居のことなど、少しも気にしていないふりをして酒を飲みつづけた。西島も、自分の芝居のことなど、まったく口にしなかった。

もう、終電車はなくなっていた。
西島といっしょに渋谷の坂を歩きはじめたとき、私はすっかり酔っていた。まだ、人通りが多く、ネオンサインがきらめいている。若い女たち、ホステスたちが嬌声をあげていた。タクシー乗り場に長い列ができていた。
私たちの前に、若い娘がふたり、歩いていた。
思いがけないことに、西島がその一人に声をかけた。

「ぼくたちといっしょに飲まないか」

ふり向いた顔に、いたずらっぽい表情があった。美少女だった。
もうひとりはごくふつうの娘で、不動産の会社か何かの事務員といった感じだった。
(つづく)