ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。
無名の頃、ジェーン・ラッセルは、ロシア出身の女優、マリーア・ウスペンスカヤの指導を受けている。やはり無名の頃のマリリンは、これもロシア出身の演出家、マイケル・チェーコフ(劇作家、チェーホフの甥)の指導を受けている。
それほど重い意味があるはずはないが、ジェーンとマリリンの「役作り」にはおそらく共通するものがあったのではないかと私は見ている。
ジェーンは無名の頃、舞台女優として演技を勉強していたこと。
彼女が指導を受けたのは、マリーア・ウスペンスカヤ。この名前から、マリーアの芝居を思い出すひとは、もういないだろう。
マリーア・ウスペンスカヤは、1923年、「モスクワ芸術座」のアメリカ巡演に参加したが、ソヴィエトの革命をきらってそのままアメリカに亡命した。私たちが、マリーアを見ることができるのは、DVDの「孔雀夫人」(ウィリアム・ワイラー監督)ぐらいなものだろうか。この映画で、マリーアは、アカデミー賞、助演女優賞にノミネートされている。
小柄で、上品な、おばあさんといった役で、よく映画に出ていた。題名を忘れたが、フランソワーズ・ロゼーが出たハリウッド映画に、マリーア・ウスペンスカヤがロゼーの義母の役ででていたのを覚えている。
女優の評価はむずかしい。
生前は、マリリンを圧倒するほどの人気があったジェーン・ラッセルでさえ、今では、ただ一度マリリンと共演しただけの女優といったあつかいなのだから。
昔、映画、「黄昏」が公開された頃、作家の中井 英夫が書いていた。
キャサリン・ヘップバーンはいいが、ヘンリー・フォンダの方は、痛ましいほど老いすぎて、映画を見る気になれない。たしか、そんなことを書いていた。
スターという存在は、男女を問わず、老いるはずがない、という信仰がある、という。
「レッズ」のウォーレン・ビーティーだっていずれ似たようなことになるのだろ
うが、こちらはまだ保(も)ちそうだとかなにとか、スクリーンの外側でやき
もきするうち時間はダリの絵さながら柔らかく腐蝕されてゆく。老いの砂。も
ろく崩れて流れ出すそれに、観客もまた巻き込まれずにいない。
こう書いた中井 英夫も、もうこの世の人ではない。
大きな時代の変化が私たちに迫っている。それをひしひしと感じながら――福島の原発の大事故を知らずに、この世を去った作家や、女優たちのことを考える。
これも、私の内部で、柔らかく腐蝕されてゆく。