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大学に舞い戻った頃、結婚を考えていた。
在学中に翻訳をはじめた。最初の本が出たら結婚するつもりだった。
月下氷人を内村 直也先生ご夫妻にお願いして、ささやかな結婚式をあげたのだが、このとき司会をつとめてくれたのは遠藤 周作。この式に、数少ない友人として鈴木 八郎、若い友人として常盤 新平が出席してくれた。

結婚してもひどい貧乏だったので新婚旅行どころではなかった。
三ケ月ばかりたって、仙台で、演劇講座のようなものがあって、私は講演を依頼された。このとき、私は妻といっしょに旅行した。これが私の新婚旅行になった。
主催者側に、当時まだ東大在学中の木村 光一がいた。仙台で、私は常盤 新平に再会する。彼はまだ早稲田在学中ではなかったか。
お互いにそれぞれの道に歩み出していた時期であった。

鈴木 八郎は、「フィガロ」に、「とりかぶと」(一幕)、「長い夜の渇き」(一幕)を書く。

彼は私から、しきりに新しいアメリカ文学の話を聞きたがった。たまたま私がミステリーや、新作の戯曲を話題にすると、じつに熱心に聞くのだった。私のほうは、彼から歌舞伎の話や、私の知らない戦前の芝居の話を聞くことが多かった。実際、鈴木 八郎はたいへんなもの知りで、芝居のことになると、知らないことがないくらいだった。

私のところにくるときは、いつも俳句の宗匠のような恰好で、雨の日には、じんじんばしょり、ふところに足袋を隠して、雑巾で足を拭いてから、足袋にはき替えてあがるのだった。
生まれは新潟だが、ことばは、いなせな江戸弁だった。私の母と、よく話があって、少し昔の歌舞伎役者や、芸事の話になると、それこそ玄人はだしだった。
歌右衛門の熱烈なファンで、「黛(まゆずみ)」(一幕/「新劇」1955年4月号)に、そのあたりの機微がうかがえる。

1953年12月、クリスマス・イヴの日、敬愛していた劇作家、加藤 道夫が自殺した。鈴木 八郎は、銀座の街を泣きながら、歩いたという。

私にとっても加藤 道夫の死はつよい衝撃だった。まさか、泣きながら街を歩いたわけではなかったが。

少し脱線するが――現在の私は、加藤 道夫が、クリスマス・イヴの日に死を選んだのは偶然ではないと考えている。じつは、この日はルイ・ジュヴェの誕生日にあたる。ジロドォーにひたすら私淑していた加藤は、当然ながらジュヴェにも絶大な関心をもっていた。私が評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いたのは、いってみれば、加藤 道夫へのレクィエムだったと思っている。
加藤 道夫の死の直後に――当時、友人だった矢代 静一から、加藤が死を選んだ理由を知らされた。矢代は、「俳優座」から「文学座」に移籍したばかりだった。彼自身は伏せているが、矢代にはじめて戯曲を書かせたのは私だった。
加藤が死を選んだ理由を知った私は暗澹たる思いだった。

原 民喜の自殺とともに、加藤の死ほど衝撃的な事件はなかった。

中村 真一郎や、堀田 善衛、原田 義人たち、そして矢代も書かなかったのだから、私も書くつもりはない。

やがて、鈴木 八郎は、私がすすめたミステリーを読んで、たくみに換骨脱胎して、捕物帳仕立ての時代ものを書いた。ひどく達者な書き手だった。
(つづく)