溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)が公開された1955年。
八十五マイルの急速で疾走してきたスポーツカー、ポルシェは、瞬間、横合
いから飛出してきた一学生の車を避けることができなかった。轟音。血。ポ
ルシェの主である二十四歳の青年は、車から跳ね出されて……死んだ。
一九九五年九月三十日、ジェイムズ・ディーンが未来を”創る”チャンス
を永久に閉ざしてから、一年が経つ。せっかちで非人情の映画界には決して
短い月日ではない。
映画評論家、荻 昌弘のエッセイから。(「ジェイムズ・ディーン論」)
同時代を生きた若い俳優の死に対する、哀惜、憐れみが感じられる。
石原 慎太郎の『太陽の季節』が発表されたのも、この年。
まだ、作家になっていなかった山川 方夫が、私相手の雑談のなかで、
「『太陽の季節』を読みましたか」
「うん、読んだけど」
「どうでしたか」
「ああいうのが、新しい文学なのかな」
山川 方夫は、当時、「三田文学」の編集をしていた。一方で、「文学共和国」という同人誌に「安南の王子」といった習作を発表しはじめていた。
「石原 慎太郎なんか、たいした才能じゃありませんよ」
彼はいった。
石原 慎太郎を「文学界」に紹介したのは、斉藤 正直だった。このことは、誰も知らない。おそらく、石原 慎太郎も知らないだろう。
斉藤 正直は豊島 与志雄の女婿で、戦時中に「批評」の同人だったが、後年、明治大学の学長になった。
1955年。
私は「俳優座」養成所の講師として戯曲論めいた話をしながら、翻訳をしていた。ひたすら雑文を書きとばし、ラジオドラマを書く、ようするに金が目当ての書きなぐり(ポットボイラー)だった。
常盤 新平の『片隅の人々』に、当時の私の姿が描かれている。
私は倨傲でおろかな文学青年だった。遠く、はるかな時期。