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折口先生によれば、「あはれなる」ということばは、善悪を超越して、「心の底から出てくる」ことばなのである。

 

  其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所の、作者を遊離した――言ひ
   かへれば、其性別を超越した、中性の歌と見るべきものが多くなって来た。つま
   り、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐたのである。
   だから、かうした「あはれなる」が、平気に用ゐられたのだ。つまり、特殊な内
   容を持つたぶん学用語であつた訳だ。

私(中田)はこういう部分に感嘆する。まさに、折口先生の卓見にちがいない。「恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐた」というだけのことだが、私などは、一度でいいから、こういうみごとな断言をしてみたいと思う。

折口先生は――俊成卿女の歌の、「心ながい」人の恋の執着を自分のものとして表現しながら、「他人の境涯」を見るように見ている、という。

   自分の心を、あはれと観じているので、いわば、身に沁むやうな感傷を享楽して
   いるのだ。われながら言ひ表されぬ程に思はれるこの心のながさ、と言つた意味
   なのだ。まづ普通と見られる解釈の本筋に叶ふ様に、此語をとけば、さうとる外
   はない。

折口先生の見方では、公経(きんつね)の作のテーマ、「あはれなる心の闇のゆかりとも」には「恋人をあはれと思ふ」と詠んでいるだけのものということになる。

俊成卿女の「心ながい」は――長続きのする心の程が詠まれている。

  いつまでも人(恋人 中田注)を忘れず、捨てず、あはれを続けてゐる事だ。こ
   の場合も、「さ」という語尾によって固定さした処――文法的には、名刺化して
   ――を見ると、自由な抒情的な表現としては、固定してゐる様に見える。だが、
   一種の戯曲味から見れば、咎めることもない。だが、未練とか、執着とか言ふ風
   に訳すべきではない。美化した誇りをもってゐる。

折口先生の注釈は、もう少しつづくのだが、私は、ここまで読んできて、ほんとうに心から感嘆した。ほんとうの批評は、こういうものなのだ。
俊成卿女の歌を「きはまれる幽玄の歌なり」とした批評を、現代の大歌人がみごとに批評している。
この短い注釈は、私がまじめにものを書くとき、そして芝居の演出をするときの目標になった。翻訳するときにさえ、この一節が心のどこかにあった。
わずか一語、「心の長さ」の「さ」について。そして、おのれの書くもののどこかに「一種の戯曲味」をこそ。
そして、恋の未練や、執着よりも、美化した誇りを。

人を愛すること。あるいは、恋すること。

折口先生から離れて、私の内面にもそういう願いがあった。