私たちは、短歌に出会ったすぐれた女たちを知っている。
樋口 一葉、菅野 スガ、梨本 伊都子、生田 花世、そのほか多数の女たち。湯浅真沙子もそのひとり。
『秘帳』は、赤裸々に女の性を歌ったとして注目されたが、長い歳月を経た今となっては、庶民の女として、素直に女の性のよろこびを見つめた歌人として評価すればよい。
緋ちりめんの腰巻前を乱しつつ 淫らのさまを鏡にうつす
淫欲の果なき吾のこのおもひ かなへたまふひと 君よりぞなき
二十分かかりてもまだ技(わざ)終へぬ甘き心地にひたるこのごろ
灯を消して二人抱くとき わが手もて握る たまくき太く逞し
眼つむりて 君たはむれの手に堪えず 思はず握る 太しきものよ
これを露骨な性描写と見るだろうか。
くり返していう。メディアで、セックスが堂々と書きたてられる時代とは、およそ遠いエロティシズムの世界ではないか。
やがて、湯浅 真沙子はレズビアニズムの経験に眼を向ける。これは、結婚前の回想ともうけとれるのだが――ターキー(水之江 滝子)、川路 龍子といったスターたちのファンだったらしい――同性愛の経験から、あらたな世界が展開したと思われる。
かの子おもへば堪えがたき夜あり わが肌狂ふ血汐に燃えたちにけり
かの子おもへばひしといだきてその肌(はだへ)合わせてみたし乳房と乳房も
こころもち涙ぐみたる瞳もて わが肩に倚るをひしと抱きにし
よりそひて抱けばふるる乳なでて赤らむ顔を なつかしく見る
この女流歌人の歌には、そのときに生きたすがたが塗りこめられている。その歌の背後に秘められた思いは、おのがじし時代とまっこうから対峙する。そうした思いは、熱く、重い。
湯浅 真沙子とほぼ同時代に、石牟礼 道子は、
それより先はふれたくなきこと夫もわれも意識にありてついに黙しつ
と歌う。(昭和26年)
湯浅 真沙子の歌には、こうした苦悩、沈黙はない。だからといって、石牟礼 道子に劣っているということにはならない。
(つづく)