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【No.1225~1229は、「朝」29号(追悼・宇尾 房子)平成22年8月刊に発表されたエッセイです】

宇尾さんの訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなったという。私は、ただ茫然として、この知らせを聞いた。

はじめて宇尾さんに会ったのは、いまからどのくらい昔のことだったのか、まるで思い出せない。そのとき、「文芸首都」の作家と聞いて、いささかたじろいだ。
「文芸首都」は新人の育成をめざした同人雑誌で、この雑誌からすぐれた作家が輩出している。その程度のことは知っていたが、だからといって宇尾さんが「文芸首都」の出身と聞いておそれをなしたわけではない。
私は「戦後」すぐから批評を書きはじめたが、いつも文壇とは関係のない場所に立っていた。文壇に知りあいはいなかったし、文壇関係の出版記念会や何かの集まりにはいっさい出席しなかった。まして同人雑誌の作家たちとは全く面識がなかった。
千葉に住むようになって、たまたま「文芸首都」出身の福岡 徹さんと知りあいになった。福岡さんが主宰していた「制作」にエッセイを書いたりするようになって、やはり「文芸首都」出身だった庄司 肇さんに紹介していただいたように思う。
その庄司さんが、これまたいろいろな方を紹介してくださった。宇尾 房子さんを紹介してくれたのも、庄司さんだった。
宇尾さんは、庄司さんが主宰していた「日本きゃらばん」に作品を発表していた。この「日本きゃらばん」の関係で、私は宇尾さん、竹内 紀吉君と親しくなった。
誰とも交際のなかった私の不器用な生きかたを気にかけて、いろいろな方がいろいろな人とひきあわせてくれた。そういう機縁でもなければ、竹内 紀吉君や、佐藤 正孝君、宇尾 房子さんと知りあうこともなかったに違いない。
べつにめずらしい話ではない。ただ、このおふたりとは、世にありがちな同人雑誌の離合集散などと関係なく、はじめから親しい友人として交際したことになる。
宇尾 房子さんが「文芸首都」で修行した作家と聞いて、私がひるんだことは事実だった。
「文芸首都」の作家では、北 杜夫や、佐藤 愛子には、いまでも親しみを覚えているが、「文芸首都」のように文壇に出ることだけを目的に修行し、その合評会では、なみいる論客がそれぞれ怪気炎をあげるという雑誌には、およそ関心がなかった。
もう一つ、この雑誌を主宰していた保高 徳蔵に、私はひそかな軽蔑をもっていたせいもある。
この作家は、戦時中にグレアム・グリーンの『第三の男』を読んでいたと書いていた。
私の知るかぎり、戦時中にグレアム・グリーンを読んでいたのは、わずかに植草 甚一、双葉 十三郎のおふたりだけで、ふたりともグリーンが「スペクテーター」の映画批評家だったと知っていたから読んだと思われる。しかも、当時、英米の作家たち、とくに、まだ無名に近いグリーンの小説は、上海の海賊版でしか読めなかった。植草 甚一さんは苦心の末に、ひそかに一本を入手して狂喜したという。(私は、植草 甚一さんから直接、この話を聞いている。)さらにいえば、グレアム・グリーンの『第三の男』は、戦時中の作品ではない。こういうことをぬけぬけと書く作家など信用できるだろうか。

批評家としての私は、それほど好悪の感情をむき出しにすることはないのだが、「文芸首都」から作家になった芝木 好子などは嫌いだった。この作家は、戦時中に書いた『青果の市』で、芥川賞をもらっているが、発表当時、警察権力の出没する部分を削ってまで芥川賞をねらった。その心根がいやしい。戦後の第一作は、エロの流行に乗ろうとして「州崎パラダイス」で娼婦を描いている。私には凡庸な作家と見えた。
そんなことも重なって、「文芸首都」の作家と聞くと、敬遠したくなったのだった。
かなり長い歳月、宇尾さんと親しくしていただいたが、文壇的なこと、お互いの身辺のことなど語りあったこともない。私たちの話題は、いつも文学に関してのものであって、その時その時のお互いの視野にあった文学に限られていた。
だから、この追悼で、私は何を語ればいいのか。あるいは、何を語ることができようか。