1229

宇尾さんの訃を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。若い頃、私は彼の芝居を演出した。その劇評が「芸術新潮」に出たことも、いまとなってはなつかしい。
私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に移ってゆく。無常迅速の思いがある。

佐藤 正孝君が亡くなって、やがて竹内 紀吉君が亡くなった。そして、今、宇尾さんの訃を聞いた。幻化夢のごとし。私にとって、すべては茫々たる夢に似ている。
かつて、あなたは語った。
生きている者も、死んだ人もそれぞれのばしょに戻ってゆく。静かにめぐる輪は、この場から立ち去る前の所作ごとなのだろう、と。
宇尾さん。
1254

仲間うちで、いつも楽しく語りあいながら、あなたはいつも何かを学びとろうとしていた。作家としてのあなたの誠実さは、あなたの作品にいちだんと光彩をそえるものだった。そのことを、私はほんとうにありがたいものに思う。
いま、おのがじし心のままに別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを思い浮かべて別れよう。
そして、私はあなたに告げよう。

宇尾さん、ながいこと、ありがとう、と。
※画像は宇尾房子さんと竹内紀吉君

1228

宇尾さんは、昨年の十月に亡くなったという。
その十月、私にあてた手紙のなかで、

 

女学校時代に依田という怖い老嬢先生に教わったことで、恐怖心が植えつけられ、外国語と親しくなることができずに一生を終ろうとしております。でも、外国の小説は好きですので、中田先生をはじめ、翻訳家の方々のおかげをいただいているわけでございます。
中田先生のお弟子さま方もすぐれたお仕事をなさり、よき師に恵まれた皆様のお幸せをおもわずにはいられません。そのオデュッセウス氏さまのお一人、高野 裕美子さまの早すぎる死にはどんなにお心をいためられたことかと、お心の内をお察しいたしました。
中田先生のお書斎で一緒だった、あの方が高野さんだったのかしら、とふっと思ったりしております。

 これが私あての最後の手紙の一節だった。
高野 裕美子は、私の周囲にいた女の子のひとりで、後年、作家になった。ミステリー大賞をうけてまもなく亡くなっている。高野 裕美子のことにふれながら、宇尾さんはひそかにご自分の死を見つめていたのではないだろうか。
宇尾さんから、よく手紙をいただいた。私がさしあげた雑誌の感想、私の作品に対する批評が綺麗な字で書かれている。私はいつもありがたく読んできたが、もう宇尾さんから二度と手紙をいただくこともない、と思うと、何かしら、涙ぐむような思いでむねがいっぱいになった。手紙をいただきながら、私からはろくに礼状もさしあげなかった。宇尾さんは、たいていの場合、私の作品を褒めてくれたので、お礼をいうのは気恥ずかしいことであった。だから、あらためてお礼も申し上げなか

1227

あるとき、私は自分の周囲にいる若い女の子たちに、短い長編を書かせた。このシリーズはいくらか評判になったが、宇尾さんにもお願いして長編を書いてもらった。私が期待したものとは違う内容になったが、宇尾さんにが書いてくれたことがありがたかった。宇尾さんは、ペンネームを使っていたから、あまり知られていないかも知れない。(注)
宇尾さんは、生活のためにいろいろな仕事をしていたが、どんな仕事をしても、宇尾さんの誠実さは感じられた。
室生 犀星のことばだが――もの書きは一人前になって、あなたの作品が好きだとか何とかいっても、いわれたほうがきまり悪い思いがするから、いっさいそんな見え透いたことはいわなかった、という。おなじような意味で、私は宇尾さんの作品について批評めいたことはいわなかった。
「朝」の仲間といっしょに出したアンソロジー、『姥ケ辻』に、「花ばたけは春」という作品を書いている。老年をむかえた女性の境遇、内面を描いたもので、老年の華やぎといったものが感じられた。
おなじ時期に、宇尾さんが、聖ハリストスのイコンの画家、山下 りんの生涯をたどっていたが、この評伝が完成しなかったのは痛恨のきわみだったと思われる。
そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。

注)『愛の雫はピアノの音色』 森 扶紗子著 双葉紗 1989年2月刊

1226

たまたま私の住んでいる土地に、小さな文学賞があって、私はかなり長く審査をつとめた。これが「千葉文学賞」で、初期の頃は、恒末 恭助、峯岸 義一、福岡 徹、窪川 鶴次郎の諸先生が審査にあたっていた。ある時期からは、長老の恒松 恭助さんを中心に、宇尾 房子、竹内 紀吉、松島 義一、私の五人が、審査にあたるようになった。この審査会は年に一度だったが、恒松さんのお人柄もあって、いつも楽しい集まりになった。
審査の席で、宇尾さんと私の意見はだいたいおなじになった。文学観が違っても個々の作品の評価になると、不思議に似たような評価になる。そんなとき宇尾さんは私の面子を立ててくれたのだろうか。いや、宇尾さんにそんな成心のあろうはずはなかった。
審査のあと、すぐには別れがたい思いで、宇尾さん、竹内君、松島 義一君と、近くの旗亭で、酒を酌みかわす。いろいろな話題が出たが、これがじつに楽しかった。
だいたいは有名作家の作品が話題になるのだが、竹内君が何かの意見を述べと、松島君が切り返す。竹内君がムキになって反論する。宇尾さんは、かるく手をあげてふたりを制する。ときには顔に笑いをうかべたまま、これだから男衆は……とでもいいたげに、ハンカチを出して、口にあてるのだった。
私たちが何を話したのか。今となっては茫々として思い出せないが、まるでたあいもない話題に私たちはいつも笑いころげていた。

宇尾さんは、この「千葉文学賞」以外にも我孫子市の教育委員会編の「めるへん文庫」の審査などもやっていた。
その「選評」に「みんなが幸福であってほしいとねがう優しい心や、この世の不思議になぜ? と問いかける心があったから物語ができあがったのです」と書いている。こんなことばにも宇尾さんのひたむきな制作の姿勢がうかがえるようだった。

宇尾さんの小説に出てくる、ごくふつうの日常のなかに、ときどきギラリとひらめく異様な輝きのようなもの、ときには生理的にドキッとさせられるような部分。いかにも女流作家らしい、ゆたかな肉感性や、息苦しい背理といったもの。「日本きゃらばん」に発表された作品は、だいたいそういうものに彩られてはいなかったか。

1225

【No.1225~1229は、「朝」29号(追悼・宇尾 房子)平成22年8月刊に発表されたエッセイです】

宇尾さんの訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなったという。私は、ただ茫然として、この知らせを聞いた。

はじめて宇尾さんに会ったのは、いまからどのくらい昔のことだったのか、まるで思い出せない。そのとき、「文芸首都」の作家と聞いて、いささかたじろいだ。
「文芸首都」は新人の育成をめざした同人雑誌で、この雑誌からすぐれた作家が輩出している。その程度のことは知っていたが、だからといって宇尾さんが「文芸首都」の出身と聞いておそれをなしたわけではない。
私は「戦後」すぐから批評を書きはじめたが、いつも文壇とは関係のない場所に立っていた。文壇に知りあいはいなかったし、文壇関係の出版記念会や何かの集まりにはいっさい出席しなかった。まして同人雑誌の作家たちとは全く面識がなかった。
千葉に住むようになって、たまたま「文芸首都」出身の福岡 徹さんと知りあいになった。福岡さんが主宰していた「制作」にエッセイを書いたりするようになって、やはり「文芸首都」出身だった庄司 肇さんに紹介していただいたように思う。
その庄司さんが、これまたいろいろな方を紹介してくださった。宇尾 房子さんを紹介してくれたのも、庄司さんだった。
宇尾さんは、庄司さんが主宰していた「日本きゃらばん」に作品を発表していた。この「日本きゃらばん」の関係で、私は宇尾さん、竹内 紀吉君と親しくなった。
誰とも交際のなかった私の不器用な生きかたを気にかけて、いろいろな方がいろいろな人とひきあわせてくれた。そういう機縁でもなければ、竹内 紀吉君や、佐藤 正孝君、宇尾 房子さんと知りあうこともなかったに違いない。
べつにめずらしい話ではない。ただ、このおふたりとは、世にありがちな同人雑誌の離合集散などと関係なく、はじめから親しい友人として交際したことになる。
宇尾 房子さんが「文芸首都」で修行した作家と聞いて、私がひるんだことは事実だった。
「文芸首都」の作家では、北 杜夫や、佐藤 愛子には、いまでも親しみを覚えているが、「文芸首都」のように文壇に出ることだけを目的に修行し、その合評会では、なみいる論客がそれぞれ怪気炎をあげるという雑誌には、およそ関心がなかった。
もう一つ、この雑誌を主宰していた保高 徳蔵に、私はひそかな軽蔑をもっていたせいもある。
この作家は、戦時中にグレアム・グリーンの『第三の男』を読んでいたと書いていた。
私の知るかぎり、戦時中にグレアム・グリーンを読んでいたのは、わずかに植草 甚一、双葉 十三郎のおふたりだけで、ふたりともグリーンが「スペクテーター」の映画批評家だったと知っていたから読んだと思われる。しかも、当時、英米の作家たち、とくに、まだ無名に近いグリーンの小説は、上海の海賊版でしか読めなかった。植草 甚一さんは苦心の末に、ひそかに一本を入手して狂喜したという。(私は、植草 甚一さんから直接、この話を聞いている。)さらにいえば、グレアム・グリーンの『第三の男』は、戦時中の作品ではない。こういうことをぬけぬけと書く作家など信用できるだろうか。

批評家としての私は、それほど好悪の感情をむき出しにすることはないのだが、「文芸首都」から作家になった芝木 好子などは嫌いだった。この作家は、戦時中に書いた『青果の市』で、芥川賞をもらっているが、発表当時、警察権力の出没する部分を削ってまで芥川賞をねらった。その心根がいやしい。戦後の第一作は、エロの流行に乗ろうとして「州崎パラダイス」で娼婦を描いている。私には凡庸な作家と見えた。
そんなことも重なって、「文芸首都」の作家と聞くと、敬遠したくなったのだった。
かなり長い歳月、宇尾さんと親しくしていただいたが、文壇的なこと、お互いの身辺のことなど語りあったこともない。私たちの話題は、いつも文学に関してのものであって、その時その時のお互いの視野にあった文学に限られていた。
だから、この追悼で、私は何を語ればいいのか。あるいは、何を語ることができようか。

1224

(つづき)
一茶が有名になったのは大正12、3年の頃からだった、という瓢齋の記述は間違いではないだろう。
とすれば、俳人、一茶が知られたのは、たかだか80年前のことになる。もっとずっと前から、一茶の存在が知られていたものとばかり思っていた。

たしかに、一茶は、芭蕉、蕪村などとちがって、生前からひろく知られた俳人ではなかった。明治に入ってからも、一茶の名はひろく知られていたわけではない。

私の好きな一茶の句をあげておこう。

信濃路や 上の上にも 田植唄

わが里は どう霞んでもいびつなり

小林家は、柏原の本通りに面して、間口9間、奥行き4間、大きな藁屋だったという。

これがまあ 終(つい)の住家か 雪五尺

後年、この家を半分に区切って、一茶と、継母、その継母の子(異母弟)仙六が、隣あわせに住んでいた。
これが一茶の実家だが、一茶が亡くなった年に、焼けてしまった。

一茶は生涯、貧窮に苦しんだという。
だが、一茶の父の代には、150俵ほどの収納米があったという。
間口9間、奥行き4間の家屋といえば、かなりの広さだし、150俵ほどの収納米というのば、ただの貧農には考えられない量で、一茶が貧しい農民の出身ではなかったと見ていい。

故郷や 蠅まで人を刺しにけり

信濃路は 山が荷になる 暑さ哉

北アルプスを歩いていた頃、よく、この句を思い出した。ザックの重さが肩に食い込んで、見はろかす山脈(やまなみ)が「荷になる」実感があった。

釋 瓢齋のつまらない随筆を読んだおかげで、しばらく一茶の境遇を思い出すことができた。これだけでもよしとしなければなるまい。