最近、私の書くものは、だいたい昔のことばかりである。
これは、いたしかたのないことだろう。年が年なのだから、現在の時代を理解できなくなっているし、理解できたとしても、その理解はごく浅いものに過ぎないだろう。
それは仕方がない。
たとえば、詩を読む。
ずっと以前は、フランス、イギリス、アメリカの詩人たちのものも読んできた。しかし、外国の雑誌を読まなくなってから、詩の世界にまるで疎遠になってしまった。
いまの私が読むものは、せいぜいポップスの歌詞ぐらいなもので、それも自分の好きな歌手のものに限られている。
たまに、シェイクスピアのソネットを読んだりする。
Or I shall live your Epitaph to make,
Or you survive when I in earth rotten,
From hence your memory death cannot take.
Althou in me each part will be forgotten.
若い頃、こんなことを読んでも、べつに感心もしなかった。へえ、そうなのか。たかだかそんなふうにうけとめただけだったにちがいない。
今の私には、もっと重みのあることばとして迫ってくる。
私がきみより長生きをして、墓碑銘を書くとして、
いや、私が地中に腐っているとき、きみがまだ生きていたとして、
きみの思い出がかき消されることはない
私のことなど、ことごとく忘れ去られるにしても (大意)
私ごときは、死ねばこの世のすべては終わる。しかし、君の名は永遠に生きつづける。
詩はそうつづくのだが、私(中田 耕治)は、有名人の誰かれの訃を聞くと、この一節をひそかにつぶやく。私はただ墓地の土にうずめられるだけだが、きみは人びとの眼のなかに横たわる。 When you entombed in men’s eyes shall lie.
大急ぎで断っておくが――シェイクスピアは、自分の詩が記念碑になって、「今はまだこの世に生まれていない人が読む。今、生きている人びとが死にたえても、これからこの世に生まれてくる人が(シェイクスピアの)詩を読んで、きみのことを語るだろう」という。私などに、そんなことがいえるはずもない。
シェイクスピアは、自分のペンには、それほどの Virtue がある、という。
ルネサンス人の凄さといっていい。
私は――しばらく前まで、スクリーンで見ることのできた美しいスターたちが亡くなったとき、ふと、この詩の一節をつぶやくだけ。
When you entombed in men’s eyes shall lie.