敗戦直後、それまでの日本をかたち作っていたものが音をたてて崩壊して行く。それは、かつて経験したことのない虚脱感として私たちに襲いかかってきた。
と、同時に私たちに重苦しくのしかかっていたものが一挙に吹き飛んで、なんとも奇妙な、あっけらかんとした解放感があった。
8月15日に、わずかながら食料の配給があった地域は多かったかも知れない。しかし、その後の混乱のなかで、鉄道ほかの交通手段が停滞し、配給システムがみだれ、私たちは途方にくれた。
私は、8月16日に、栃木県に疎開した母にわずかな食料を届けるために、早朝から上野駅に向かったが、東北本線は1本も動いていなかった。上野駅には、東京から脱出しようとする無数の群衆がひしめきあって、プラットフォームは、それこそ立錐の余地もないくらいだった。
私は朝の6時からプラットフォームにいたが、はじめての列車が駅に到着したのは、もう10時をかなり過ぎてからだった。群衆がわれがちに乗り込む。車窓から荷物を放り込む。その窓から車内に乗り込む。まるで暴動のようだった。その後もこれほどの状況は、見たことがない。
たまたま、私のとなりに同年輩の少年がいた。押しあいへしあいしているうちに、私たちは、入口から離れてしまった。
つぎの列車がでるとは考えられない。どうしてもこの列車に乗らなければ、と思った私は少年に、
「おい、あそこに乗ろう」
と声をかけた。
少年は私の視線の先をみて、すぐにうなずいた。そこは、車両と車両をつなぐ蛇腹のような蔽いの上だった。その蛇腹に乗れば、車両の先端に腰かけられる。
少年は、猿のように蛇腹に手をかけた。私は、少年の腰を押し上げてやった。つぎは、少年が私に手をさし伸べて、私の手をつかむと引きずりあげてくれた。
蛇腹に足を置いて、車両の先に並んで腰を下ろした。
なかなか快適だった。
いまから考えると、ずいぶん危険な行動だが、その時の私たちは危険だとは思ってもみなかった。私たちを見た人たちも、おなじように、連結の部分から屋根にのりはじめた。むろん、そんなことをする人たちは少なかったが、それでも各車両に2名づつはいたように覚えている。
こうして、私たちは、国鉄史上はじめて違法乗車をやったのだった。
敗戦翌日の国鉄がほとんど運行せず、ダイヤは麻痺状態、大混乱になった。駅に殺到した乗客は殺気だっていた。
このときのことは、後年、小説に書いた。 (つづく)