私が好きな外国の女流作家。
アナイス・ニン。私は、彼女の作品を全部読んだ。ただし、自分で訳したのは長編が一つだけ、あとは処女作、『ガラスの鐘の下で』のなかの2編を訳しただけに終わった。ほんとうは、もっと多くの作品を訳したかったが、そんな機会はなかった。
アーシュラ・ヒージ。ドイツ系のアメリカ作家。彼女の作品はクラスで読んだ。私は作家の清冽な筆致に魅せられた。とにかく描写の一つひとつが、その作品の語り手の内面を想像させることに、心を奪われた。凄い作家がいるものだと思った。
ジャマイカ・キンケード。この作家のものは、わずか1編しか知らない。しかし、女流作家らしく、自分の身辺のことを書きながら、それだけで人生の哀歓を感じさせる。日本の女流作家が書くことを忘れてしまったり、はじめから問題にしないような世界をきっちりとらえている。しかも。いっしゅの凄味があって、なかなかの才能だと思う。
つぎに、私があげるのは、イタ・デイリー。アイリッシュの作家。失礼だが、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージと肩を並べるほどの作家ではない。しかし、この作家も、読んでいてじつにすばらしい。いまの作家の短編がどんなにおもしろいものか、イタ・デイリーを1編、読むだけで納得がゆく。
もう、ひとり。この少女は誰も知らない。本を1冊出しただけで消えてしまった。才能はあった。しかし、高校の文芸部か何かで、小説らしきものを書いて、少しばかりいい気になったのだろう。
ユダヤ系の少女だった。
私は、この少女の書いたものを読んで、ほんとうに感心した。
それから数十年たって、私のクラスで、イギリスの作家の長編を読んだ。そのオープニングを読んだとき、ずっと以前どこかで読んだことがあるような気がした。
そして――私が関心をもったアメリカの少女の書いた短編とまったくおなじ文章だったことに気がついた。
私は茫然としたが――その少女を非難する気は起きなかった。17歳の少女が、よくこんな長編を読んだなあ、と思った。
そして、自分でもすっかり気に入って、イギリス作家を模倣したのだろう。しかし、模倣しきれなくなって、つい、失敬してしまったに違いない。いいかたを変えれば、少女の才能は、その程度のものだったのだろう。
たった1冊だけ、有名な出版社から本を出して消えてしまった少女。彼女のことを考えると、なぜか私の胸には、いたましさと、その後の少女の人生が幸福だったことを願う思いが重なってくるのだった。
彼女の作品を、いつか翻訳したいと思ってきたのだが、どうやら夢に終わるだろうな。