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鈴木 八郎は、一幕もの、『黛(まゆずみ)』を「新劇」に発表しただけで、劇作家としては挫折したが、一方で、クラブ雑誌と呼ばれる読みもの雑誌に、おもしろい時代小説をいくつも書いている。八郎の先輩だった、三好 一光は世をすねた作家として生きたが、鈴木 八郎は小説を書くのが楽しくて時代小説を書きつづけていた。
後年の私はクラブ雑誌にも通俗小説を書いたが、鈴木 八郎が、程度の低い書きなぐりの作品を書かなかったことを見てきたことも影響していたと思う。
その頃、純文学を志しながらクラブ雑誌などに書けば筆が荒れるという人がいた。それに、一流の雑誌の編集者は、一度でもクラブ雑誌などに書いた作家を相手にしない、ともいわれていた。
私はそんな連中を軽蔑していた。なんという狭量だろう。クラブ雑誌に書いて筆が荒れるようなやつは、どこに書こうといずれ筆は荒れるのだ。クラブ雑誌だろうと一流の雑誌だろうと、てめえの書く作品に変わりがあろうものか。
西島 大がテレビで「Gメン’75」や、「西部警察」の脚本を書いたからといって、劇作家としての評価が低くなるだろうか。そんなことはない。そんな了見で、競争のはげしい芝居の世界を生き抜いていけるはずもないのだ。

 

鈴木 八郎が不遇のまま亡くなったとき、私は若城 紀伊子といっしょに葬儀に出たが、そのあと、西島と三人で酒を酌みかわした。
彼は何を思ったか、私にむかって、
「お互いに偉くなれなかったなあ」
といった。
私は笑った。
「そうだねえ、ろくなもの書きになれなかったなあ」
すると、若城 紀伊子がにこにこしながら、
「何いってるの、西島さん。中田さんはルネッサンスの大家で、何冊もすごい本を出してるのよ。ほんとは偉いのよ、中田さんて」
といった。
「ふうん、そうかあ」
西島は、にやりとしてみせた。
ごめんな、きみの仕事のことを何も知らなくて、とでもいいたそうなその笑いは、不愉快なものではなかった。
当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、ジャーナリズムで仕事をすることがなくなっていた。だから、 「お互いに偉くなれなかったなあ」といわれても仕方がなかった。それに、お互いに仕事のジャンルが違うと、相手がどういう本を出しているのかさえもわからなくなる。それでもいいのだ。お互いに、しがないもの書きとして生きているのだから、偉くなろうと考えるほうがおかしい。
酒を飲んで、鈴木 八郎の思い出を語りながら、私たちが、一時期いっしょに悪場所に遊んだことさえも楽しく思い出されるのだった。そのあと西島は、イタリアで買ったブリューゲルの画集を私に贈るといい出した。
「おれ、イタリア語、読めないからもっててもしようがないんだ」
私は笑った。こういうかたちで、大は、私に対して気遣いを見せている。それが、うれしかった。

『ルイ・ジュヴェ』が出たとき、いちばん早くハガキで祝意をつたえてきたのは、西島だった。岑 参(しんじん)の詩を思い出した。

庭樹不知人去盡   庭樹は知らず 人 去りつくすを
春来還発舊時花   春 きたりて またひらく 旧時の花

庭の木々は、むかしの人がみんな死んでしまったのも知らないように、はるがくれば、また、おなじ花をつけて咲いている。

「青年座」の創立メンバーは、全員、あの世に疎開してしまった。今頃、西島は、東 恵美子や、山岡 久乃、初井 言栄たちと、いっしょに乾杯しているかも知れない。
大よ、おれもそのうち、そっちに行くさ。おれが着いたら、久しぶりにサシで一杯やろうじゃないか。