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西島自身は誰にも語らなかったが、戦時中は熱烈な愛国者で、敗戦の詔勅を聞いた日、悲憤のあまり皇居前に馳せ参じて、同志とともに自裁しようとした少年だった。
おそらく兄の影響もあったのではないかと私は想像する。彼の兄は、「日本浪漫派」の詩人として知られた田中 克己である。これも、西島は、けっして口外しなかった。
私は田中 克己の「楊貴妃伝」をすぐれた評伝として敬意をもって読んできた。おそらく、西島が劇作の道を選んだのは、兄と違った世界を選びたかったのではないか。少なくとも、兄の後塵を拝することを避けようとしたからではなかったかと推測していた。
彼がいずれ劇作家として成功することを私は疑わなかった。

戦後まもなく、西島 大とおなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと知りあった。この人たちが、戯曲専門の同人誌「フィガロ」を出すことになった。その中心にいたのが鈴木 八郎だった。
内村先生からはじめて紹介されたのだが、その後、いつも西島 大といっしょに頻繁に会うことになった。

鈴木 八郎も奇人といってよかった。正確な年齢はわからない。歯切れのいい江戸弁で、いつも和服に、すこぶる上品な草履、頭に宗匠頭巾。私よりも十歳以上も上だったはずである。「戦後」の猥雑な世界に、彼の周囲だけは、江戸の匂いがただよっていた。八郎の話を聞いていると、大正末期、または昭和初期に20代だったような気もする。しかも本人みずから男色者であることを隠さなかった。
ときどき私の母を相手に、六代目や、もっと前の沢村 源之助などの話をしていたから、年齢がわからない。たいへんなもの知りだった。

ほんとうなら軍隊にとられるはずもなかったのだが、戦局の悪化で、北方、キスカの守備隊に送られた。アッツ島の日本軍が玉砕して、キスカから転進(退却のこと)し、無事に内地に戻って終戦。その後は、ただひたすら劇作家を志望して、いつも戯曲を書きつづけていた。
鈴木 八郎は、多幕ものを書いては商業演劇の脚本の公募に出していた。
まともな学校教育を受けたわけではないのに、芝居に関して知らないことがないほどの大知識で、私などは新劇、歌舞伎の、役者のこと、劇団の内情、思いがけない秘話まで教えてもらった。外国の演劇についてもくわしかったが、私が読んでいた外国の戯曲の話をしきりに聞きたがった。
西島 大とは大の親友で、おなじ「フィガロ」の若城 紀伊子とも親しかった。(若城 紀伊子は、戯曲が専門だったが、のちに「源氏物語」の研究者として知られ、作家としては女流文学賞を受けている。)

「フィガロ」のグループのすぐ近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はやがて、桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。

西島 大の処女作は「フィガロ」に発表されたが、つぎの「メドゥサの首」は、山川 方夫の編集した「三田文学」に発表されている。それを私が演出したのだった。
(つづく)