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今更ながら――すぐれた俳句なり短歌なりを読むありがたさはどうだろうか。
短い詩形にどれほど豊かなものが盛り込まれているか。

たとえば、私の好きな句を選んでみようか。

一日の春を歩いてしまいけり      蕪村

ほかにも好きな蕪村の句はいくらでもあるが、こういう句は、一編の短編を読むほどにもすばらしい。むろん、こういう時間の過ごしかたは、今の私たちにはない。ということは、私たちには季節としての「春」もないということにならないか。

桐の葉は 落ちても 庭にひろごれり  鬼貫

これもやさしい平叙体の一句だが、私たちの書く作品には季節としての「秋」も失われてしまったような気がする。

道ばたの木槿は 馬に喰はれけり    芭蕉

これはもう、私たちが見ることのない風景だろう。俳句を読む。私にとっては、もはや見ることがないからこそ芭蕉の見た季節を見ようとすることにひとしい。
私がへんぺんたるメッセージを書く姿勢も、こういう俳句を詠む人々の姿勢に、それほど違ってはいない。ただ、私には才能がないだけの話だ。