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(つづき)
宮 林太郎は一部では知られた作家だったが、本業は医師で、祐天寺では誰知らぬものもない名医だった。
新築のマンションの壁面に、パリ市内で見かけるものとおなじ青いプレートで、Rue Hemingway という看板を掲げていた。
私にあてた手紙の住所表記も、すべて「ヘミングウェイ通り」となっている。私も、冗談で、一時、「ヘミングウェイ通り」を僭称したことがあった。(このいたずらは千葉の中央郵便局のお気に召さなかったらしく、フランスから送られた雑誌が返送されたと知って、私は、このアドレスを抹消したが、宮さんは、東京の「ヘミングウェイ通り」を押し通していた。)
石川 達三の回想記、『心に残る人々』(「文芸春秋」昭和43年)のなかに、宮さんとの交遊が語られている。

彼と私との交遊は三十五年ぐらいになる。いまでも彼は、(文学を離れて卜の人生は無いです)と言う。それほど好きなのだ。しかし作家として著名でないことを、あまり苦にしてはいないらしい。こういう人が却って本当に文学をたのしんで居るのかも知れない。また逆にいえば、文学はこういう人によって最もその価値をみとめられるのだとも考えられる。

石川 達三と宮さんの交遊が三十五年というのだから、逆算すれば昭和8年(1933年)だが、この年、宮さんは故郷の淡路島から上京したらしい。
石川 達三が亡くなったのは、昭和60年(1985年)だが、この作家の最後も、宮さんが見とったのではないかと想像する。
私が親しくしていただいたのは、宮さんの晩年、1994年あたりからだった。
「フリッツイ・シェッフ」が載った「SPIEL」6号を宮さんに送ったのは、1995年7月12日だった。
なぜ、そんなことがわかるかというと、私の送ったハガキがこの雑誌に挟んであった。
その裏に、宮さんがメモのようなものを書いているのだった!

中田さんがこんなにオペラにくわしいとは知らなかった。わが身が恥ずかしい。ぼくはフリッツイのことをまったく知りません。それは当たり前で僕の生まれる前の話です。テトラチーニ、ファーラー前の歌手です。しかし、中田さんの文を読んで、大いに興味をそそられました。
こんな歌姫がいたのかという驚きです。それにしても中田さんの筆はこの女を生かしていますね。目の前にいるようです。
曲は残っても歌った本人はいない。その歌は別な新人歌手によって歌われる。しかもそれは現代ではデジタルでキャッチされる。例のメルバのレコードをぼくはもっていますが、蚊の鳴くような音で雑音の中から彼女の声が聞こえてくるのです。蚊の鳴くようなオーストラリアの鶯。

これを読んで驚きは深まるばかりだった。
(つづく)