ヤツガレ、ご幼少のみぎり――なんて気どったところで、はじまらねえか。
夜が明けると、町を流して歩く売り声がひびく。納豆売り、シジミ売り、トーフ屋。
私の通った小学校では、おなじ小学校を卒業した大先輩で、海軍の提督になった斉藤 七五郎中将の少年時代が唱歌になっていて、毎日のように歌わされた。誰の作詞だったのか。そのなかに、
身は、幼少の納豆売り
という一節があった。私の少年時代(昭和初期)には――さすがに小学生の納豆売りは見かけなかったが、それでも自転車に乗って、ツト納豆を売り歩く若者を見かけた。
煮豆屋もかかさずまわってくる。これは、リヤカーを改造したクルマに、白木の箱が重ねてある。その箱の引き出しに、よく磨いた真鍮の把手がついている。引き出しの中には、フキマメ、ウズラマメ、クロマメなどが、いっぱい入っている。
町家のおかみさんが、ドンブリをかかえて煮豆屋を呼びとめる。
注文を聞いた煮豆屋が、朱塗りのシャモジで豆をしゃくって、ドンブリに入れる。
どこの家の朝飯もオカズはだいたい似たりよったり。
オミオツケ、煮豆、おシンコ。おシンコは、白菜の漬物やタクアンなど。
今からみれば、粗食というか、貧しい食卓だった。
昼のお惣菜は、イリドーフ、オカラ、ヒジキ、ゼンマイ、ツクダ煮、アサリ、ハマグリ、ミガキニシンといった献立で、たまに焼きザカナが出たりする。
肉ジャガなどは、めったに食べられなかった。そもそも、あまりジャガイモを食べる習慣がなかった。ルーサー・バーバンク種の「男爵」が、まだ普及していなかった。
仙台では、笹カマボコがおいしかったが、あまりサツマアゲは食べなかったような気がする。東京の下町では、カマボコ、サツマアゲの両方を食べたが、笹カマボコを食べることはほとんどなかった。
最近の中国のGDPは、日本を抜き、アメリカについで、世界第二位になる勢い。
それかあらぬか、かつてはナマザカナをたべる習慣のなかった中国人が、いまや寿司やおサシミをよろこんで食うようになっているとか。
おサシミ用のマグロの消費量は、2000年に、約二百トン。2008年には、約一万トン。ほぼ、50倍の伸びという。
海産物の消費量は、この10年で、約1000万トン。日本の約900万トンをかるく追い抜いた。
今の中国は、それでも発展途上国だそうな。つい最近、中国政府がそう言明していた。
友愛のおかげで、マグロどころかメザシも食えなくなるかも。(笑)