つい先日、私は書いたのだった。
「和歌や短歌は、はじめから私などの立ち入るべき世界ではない」と。
理由をあげるとすれば、私が和歌や短歌を敬遠してきたのは、じつは記憶できないせいではないか、と思う。
わが恋の 果てはありけり 蝶の凍 はぎ女
おなじ作者の
茶の花や 丘ばかりにて 川もなし はぎ女
といった句はおぼえやすいが、
今日来ずば 明日は雪とぞふりなまし
消えずはありとも 花と見ましや 在原 業平
いくら名歌でも、私の、くたびれきった脳にはすぐにうかんでこない。さなきだに(そうではなくても)いまや私の脳には、あわれ、ベータ・アミロイドが「雪とぞふりつもって」いるので、和歌や短歌はおぼえられない。おぼえても思い出せない。
暇なときに和歌を読む。ときどき、笑いたくなるからいい。
冬川の上は氷れる我なれや 下に流れて恋わたるらむ 宗岳大頼
冬の川水は、氷の下を流れる。私の恋は、氷の下を流れる冬の川のようなものだ。それだけの歌だが――私の思いは、氷の下、つまりは硬く凍った心のなかに流れているので、氷を溶かすことはない。だから、私がひそかに恋しているひとに気づかれることもない――そう見てくると、無残な歌に見える。思わず、ニヤニヤしたくなる。
眼にした一首を、ためつすがめつ読む。けっこう楽しい。
あるお坊さん、さる女人に、あの老法師を見よ、と笑われた。そこで詠んだ一首。
形こそ み山がくれの 朽木なれ
心は花に なさばなりなむ 兼芸法師
それほどいい歌には見えないし、ひとによっては老人のいやらしさを不快と感じるかも知れない。
私は笑った。ゲラゲラ笑ったわけではなく、イヒヒヒぐらい。身につまされたせいもある。今年は、せめてこのくらいの気概をもってくだらぬことを書くことにしよう。