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年末、その年の総括として、どこかの寺の坊主が、一字を揮毫する行事をみた。この坊さん、一昨年は「変」の一字、去年は「新」という一字を、大きな紙に墨痕あざやかに揮毫なさった。

「新」などという言葉で何がいいあらわせるものか、とひそかに思ったが。

一字をもって世相をあらわそうというのだから、最大公約数のようなもので、何をもってきても通用する。お坊さんも、政権交代で鳩山内閣が登場したことを「新」と表現なさったのであろう。もとより、たいした趣向のものではない。つまらぬ 浮辞に過ぎない。こんなものは――小人の情を動かす所以に過ぎない。

私は思い出す。――まさに100年前、明治43年(1910年)の坪内 逍遙のことばを。逍遙は、この年、早稲田で、「近世文学思想の源流」という講義をはじめたが、その冒頭で、

新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼
声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる。

と語った。(「早稲田大学文学科「講義録」(第二号)。

逍遙は、日清戦争前後から俄然として形勢が一変し、外国思潮の浸入がにわかに急になった、という。18世紀末から19世紀末にいたる100年の「彼方の分断に瀰浸したあらゆる思潮は、時を同じうし、もしくは密接に相前後して何の前知らせも無しに浸入」してきた。
早い話が――西洋の文壇が最近一百年間に経験した種々雑多な重大な変動――利弊相半ばする大変動を、日本の文壇は、わずか15、6年に、ほとんどことごとく接触したと逍遙はいう。

その結果、いわゆる自然主義の世の中になった。ところが、これと同時に、印象主義、標象主義(象徴主義)も唱えられる。沙翁(シェイクスピア)やゲーテやシルレルを激賞する声がひろく行きわたったかと思うと、もはやこれを貶す声が聞こえる。ワグネルを紹介する評論が少々ばかり見えたかと思うと、いつしかオペラ熱(逍遙はオペラ沙汰と書く)は忘れられる。
イプセン、トルストイの研究がはじまったかと思うと、すぐに捨てられて、ロシア、フランスの最近の文学に注意を傾倒するというアリサマ。そして――「新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる」という言葉になる。

明治43年の逍遙は、私財を投じて演劇研究所を発足させている。やがて、帝国劇場で『ハムレット』を上演する。
逍遙の論敵、森 鴎外は「スバル」を創刊し、旺盛な活動を見せている。
谷崎 潤一郎が、『刺青』で文壇に登場する。

2010年が「新」などと見るのは、へたな冗談にすぎない。

稲妻や きのふは東 けふは西    其角

このくらいに見とけばいいやな。どうだろう、其角さん。