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王朝末期から鎌倉にかけての頃、盗作など問題にならない。
だれかが新しい表現をもち込めば、ほかの歌人たちも、たちまち類型の作を披露するだろう。それは模倣とか流行とはかかわりがない。あたらしいモード、ファッションなのだから。

私は、折口先生の評釈を読んで、俊成卿女の作のみごとさを知ったが、折口先生の凄さは、じつは、もう少し先にあつた。

あはれなる――かうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる
場合を考へると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思
はれる。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多
少なりとも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

凄い。ここにきて、私などは茫然としたどころではない。
いやぁ、そうですか。そうでしたか。先生のおっしゃる通り、そう見るべきですねえ。
折口先生の説を引用しておこう。

此語の中心意義は、言語・善悪を超越して、心の底から出て来るを言ふことに
なって来てゐるのである。其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所
の、作者を遊離した――言ひかへれば、其性別を超越した、中性の歌と見る
べきものが多くなつて来た。つまり、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情
詩を作る様になつてゐたのである。だから、かうした「あはれなる」が、平気
で、用ゐられたのだ。つまり、特殊な内容を持つ文学用語であつた訳だ。

これほど明快な解説をうかがうと、大方の「もののあはれ」についての論議など笑止に見える。
俊成卿の女(むすめ)の一首は、「心ながい」ひと(女人)の、愛する人へのつよい執着を、自分のもの(恋)として表現しながら、しかも、それを他人の境遇を見るように見つめている、ということになるだろう。
折口先生の考えの凄さが、私にも見えるようだった。

「心ながさのゆくへ」は――いつまでも、愛する人を忘れず、捨てず、「あはれ」をつづけること。そういう生きかたのことになる。