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『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

ナターリア   嵐がやってくる。

作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

まったく個人的なことを書いておく。
旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
そして、2009年のロシアにも。

このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。