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『ユートピアの岸へ』は、第一部でバクーニン家の物語として展開しながら、第二部からはゲルツェンを中心にシフトしてゆく。つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
むしろ、もっと凝縮した構成の戯曲にできなかったものか、と思う。もっとも、この戯曲があの浩瀚な『回想と思索』の脚色と見れば――「1833年夏」からはじまって、「1849年1月」(第三場)、「1850年9月」、「1850年11月」という単調な場割りがつづいて、最後の最後に「1846年 夏」(第三幕)のソコロヴォ、つまり第二幕のラストにつなげる、というバックワード・タクティックス(「過去」にもどるというドラマトゥルギー)は、蜷川演出によって救われただけで、実際には(戯曲として)効果はなかったのではないかという気がする。
あるいは、観客に重い感動をつたえるためにこういう終わりかたが必要だったというのだろうか。

第三部、第二幕、(1860年8月)いよいよ芝居の大団円という幕に、大作家になったツルゲーネフが姿をみせる。
この第三部、第二幕、で、ツルゲーネフの前に、医者があらわれる。この医者は、ニヒリストとして、ツルゲーネフと論争する。むろん、ツルゲーネフは、この論争では分がわるい。なにしろ、徹底的にプラグマティックな人物で、その論理の科学性に、文学者として思想的に彷徨とつづけてきたツルゲーネフがかなうはずがない。
そして、医者は、この時代に、実用性以外に信じるに足るものはない。進歩も、道徳も、芸術も信じない、
最後に、ツルゲーネフは問いかける。「私は、きみをどうよべばいいのか」と。
相手は答える。「どうぞ、バゾーロフ」と。
この「意味」がわかった観客は、ほとんどいないのではないだろうか。あえていえば、トム・ストッパードは、わかってもらえなくてもいい、として、この場面を書いたのではないか、と想像する。
そういう意味では、この戯曲は、個々の人物を描いているというより、それぞれの人物たちがあるムードのなかで動きまわる群像劇と見ていい。
はじめから思想劇などと見ないほうがいい。
最後になって――それまで思想や、革命に対する戦術、戦略がことなってきたバクーニンに痛烈に批判される。

バクーニンは、マルクスとは違う。マルクスの思想は「自由のないは共産主義」と見なした。その果てにくるものは、隷属であり、とどまることを知らない野獣主義と見ていた。
ロシアの共産党政権は、70年にわたって何をめざし、何を果たしたか。
ロシアの共産党政権が追求したものは、人民の「隷従」、そして、スターリンの「独裁」という野獣性だった。
1921年から22年にかけて、餓死した人は、少なくとも500万に達する。
1928年、独裁者、スターリンの命令で、1000万戸の富農を抹殺したが、中農、貧農までまき添えを食った。850万から900万の人々が追放され、その半数が1年以内に死亡した。
1936年から大粛清がはじまる。そして大量処刑。
芸術の世界でも、粛清の嵐が吹き荒れる。1934年の作家会議に出席した約700人のうち、スターリンの死の直後まで生き残ったのは、50人といわれる。

演出家、メイエルホリド、詩人、マンデリシュタム、作家、ビリニャーク、バーベリなど多数が獄死、または銃殺された。
共産主義体制下で、150万人から200万人が亡命した。粛清の犠牲者の総数は不明だが、2000万人から6000万人という諸説がある。
帝政という怪物を倒したかわりに、スターリンというはるかに強大な「怪物」を生み出したロシアは、恐怖におののきつづけた。

イデオロギーとしての共産主義の崩壊と、ソヴィエトの解体は、けっして小さな事件ではなかった。『ユートピアの岸へ』を見おわったとき、私の胸に去来したのは、そういう思いだった。