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「第三部」で、ゲルツェンは、盟友、バクーニンに痛烈な批判を浴びせる。
こういうバカげた秘密の旅行も、暗号も、偽名も あぶり出しの手紙もみんな子どものお遊びだ。きみに疑いをもたない人間は、リーザひとりだ。無理もない。
きみは暗号の手紙を送りながら、相手がそれをよめるように暗号表を同封している。
バクーニンは反撃する。
君の同盟なら参加できると思ったが、そうやって偉そうに、恩きせがましく、いったい誰にむかってそんな口をきくのか。
出て行くバクーニンを、オガリョーフは追うが、もはや、バクーニンは戻らない。ドラマは、ここから最後のデヌーマンに向かいはじめる。
ツルゲーネフも出てゆく。少女のタータも、ゲルツェンから去ろうとしている。
惑乱したゲルツェンは、ナターシャを抱きしめようとする。だが、このとき、ナターシャの内部に大きな変異が起きる。彼女もまた、ゲルツェンに痛烈なことばを浴びせる。
こうしてロシアの前途に横たわる絶望、苦い幻滅は、ゲルツェンの胸にもたちこめている。
それまでの「オガリョーフ」は、それほど大きな「役」ではない。ところが、第三幕の石丸 幹二は、じつにみごとに阿部 寛に拮抗している。前に見た「イノック・アーデン」に、私は失望していたので、あらためて石丸 幹二の資質に感心したのだった。
つづいて、ツルゲーネフ(別所 哲也)が登場してくる。
ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキーや、ドブロリューボフに毛嫌いされていることを語る。自作の主人公が、ただのリベラリストに過ぎないという理由で。
このあたり、ロシア文学の理想と現実を知らないと、どうしてもわかりづらい。
別所 哲也は、ここでは(この芝居では)ごく普通の出来だった。おそらく理由があるだろう。阿部 寛がますます力をましてきているし、第三幕は「バクーニン」(勝村 政信)がこの場をさらって、客を魅了しているため、別所 哲也が輝きを見せてもあまり印象に残らない。(『レ・ミゼラブル』の別所 哲也ならもう少し違うだろう。)
第三幕、[1861年12月]の場で、ツルゲーネフはいう。「私は裏ぎり者と呼ばれている。左派と、右派の両方から」。
ツルゲーネフはゲルツェンに向かっていう。きみの〈カマトトぶり〉は、オールドミスも真っ青だ。きみとオガリョーフは、自分のスカートをやたらにまくって、秘所をご開帳している、と。
ゲルツェンは怒る。
ロシアの社会主義者は、みずからの封建性や、専制とは無縁の、(ヨーロッパの)体制と対比して、後進性と同時に、ロシアの優位を説いてきた。ヨーロッパと同じ発展の道を行くことはない。どうせ、行く末はわかっている、と。
だが、やがて「ゲルツェン」たちの後継者として、レーニン、スターリンのソヴィエトがあらわれる。
私たちは、スターリンのやったことが、帝政ロシアの暴政の、拡大再生産だったことを見せつけられてきた。ソヴィエト崩壊後の現在だって、プーチンは、スターリンのソヴィエトと、自分たちをひき較べて、自分たちの体制がいかに優れているかを誇示している。
なるほど、社会主義の計画性や、指令システムは、電力、鉄鋼その他の基幹産業では、うまく機能していたかに見えた。さらにいえば、世界戦略に対応するための兵器産業の部門でも。(私が、日露戦争を思い出していたことはいうまでもない。)
『ユートピア』(第三部)、ゲルツェンがチェルヌイシェフスキーと論争する。
チェルヌイシェフスキーの論点は、やがてレーニン、スターリンの恐怖の論理になる。ゲルツェンは、「狼の大群がロシアの街を勝手に歩きまわることになる」という。
私たちは、ゲルツェンの孤立と、ロシアの理想の「サルヴェージ」の意味を予感する。
共産主義国家の政策は、人民のためなどということは絵空事にすぎなかった。「アリ塚のユートピア」なのだ。たとえば農業、農産物のマーケティングひとつとってみても、社会主義システムはまったくの失敗に終わった。
『ユートピアの岸へ』におけるゲルツェンの「旅」Voyage は、Wreck であり、ついに「ユートピアの岸」に「漂着」Salvage することに終わった。
私は「第三部」の阿部 寛を見ながら、「ゲルツェン」の孤独を感じて、ほとんど暗然としたほどだった。