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『ユートピアの岸へ』第二部(「難破」)から、私たちはゲルツェンという特異な革命家の「運命」を目撃することになる。

ゲルツェンは、モスクワ大学でオガリョーフとともに、フランスの空想社会主義の思想家たち、サン・シモン、フーリエの著作に熱中する。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及されている。)
その後、警察に逮捕され、流刑。
第二幕は、主人公、ゲルツェンが中心というより、ゲルツェンとその妻、ナタリー(水野 美紀)、ナタリーの友人、ナターシャ・ツチコフ(栗山 千明)、ゲルツェンの親友、オガリョーフ(石丸 幹二)たち。この人たちがめまぐるしく演じる有為転変、さらには、革命の理念をめぐって、濃密な時を舞台に織りなすとりどりの運命。
かんたんにいえば、そういうことになる。

『ユートピアの岸へ』では、さまざまな人がパーティーに集まる。たとえば、「1835年 3月」(第一幕/第3場)のバイエル夫人の夜会。
「1843年 春」(第一幕/第22場)のパーティー。ここでは、「赤毛のネコ」が登場する。どういう仮装なのか、よくわからない。おそらく、皇帝直属の秘密警察「オフラナ」か何かなのだろう。
ベリンスキーが批評家として有名になりかける。たまたま、わかい詩人が、はじめての詩集を献呈する。ツルゲーネフ(別所 哲也)という青年である。
ツルゲーネフが去ったあと、ベリンスキーと「赤毛のネコ」が黙って、舞台に残される。お互いにじっと凝視している。ほんとうなら、ここで、異様な緊張、ないしは恐怖が走るはずだが、ベリンスキーが自分の名を告げても、「赤毛のネコ」は、パーティーにきた仮装の人物にしか見えない。
なんだ、あれは? わからなかった。これは、私の頭がわるいせいなのか。

とにかく、いろいろな人たちが、ゲルツェンを中心に集まってくる。
「1847年 7月」(第二幕/第2場)、ゲルツェンのアパルトマンというふうに。
ロシア人はお互いに自己紹介して、それぞれの考えに共鳴すると、昨日まで見ず知らずの人でも、たちまち旧知の友だちになってしまう。だから、友人の友人を心から迎え入れて歓待する。
1848年、バクーニンは、カール・マルクス(横田 栄司)に会う。マルクスは『共産党宣言』を書いたばかり。30歳。
ツルゲーネフが、マルクスから、『共産党宣言』を借りて、冒頭の一節を読む。
「幽霊がヨーロッパに出没している……共産主義という幽霊が!」
当時、ロシア・インテリゲンツィアの胸には、フランス革命の記憶が刻みつけられていることを、まざまざと見せつけられたような気分になった。
場所は、パリ。二月革命。
この「革命」が生んだもっとも急進的な動きは、バブーフの運動と見てよい。これは、ルイ・フィリップの時代に、秘密の革命的結社に受けつがれる。いわゆるブランキーズムである。私たちは「バクーニンの人生で、この頃がもっとも幸福な日々」だったことを知らされる。

1848年の革命の挫折。
ゲルツェンの期待は、失望にかわる。
友人で、詩人のヘルヴェーグ(松尾 敏伸)、その妻エマ(とよた 真帆)と共同生活をはじめる。
ゲルツェンの夫人、ナタリー(水野 美紀)は、ヘルヴェーグ相手の不倫に走る。

1848年は、どういう時代だったのか。芝居を見ながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。バルザックがハンスカ夫人に夢中になっていた時代。
バルザックは書いている。

女たちは、同性にモテる男には何かしら腹立たしさを感じさせられる。おかげで、かえってその男に関心をもってしまう。

ヘルヴェーグの妻エマも、そんな眼でみられていたのかも知れないな。気に入った芝居を見ると、きまっていろいろなことが頭にうかんでくる。私の悪癖のひとつ。
『フインランド駅へ』を連想しながら、『ユートピアの岸へ』を見るというのは、いささかあきれるけれど。

とよた 真帆は美貌の女優。そして、水野 美紀も。
美人の女優は自分では気がつかないかも知れないが、真剣な演技をしているときでも、自分の表情、語りくち、身のこなしに、どこか違ったところがあって、演出家には、やはりあらそわれない、はっきりしたフロウ(欠点)として見えることがある。

この場の、バクーニン(勝村 政信)、これがとてもいい。第一部で、士官学校をやめようとしている若者にもつよい印象をうけた。第三部で、しきりに「笑い」をとるバクーニンもおもしろいが、この第二部の勝村 政信は、終始、ゲルツェン(阿部 寛)と拮抗する。
勝村 政信を見ていて、バクーニンが、ここにきてプロレタリアの暴力革命によってブルジョアを打倒する可能性を見たことがよくわかった。