1121

第一部には青春のみずみずしさが、みなぎっている。ロシアの青春も。とすれば、この芝居を青春の群像を描いたものと見てもおかしくない。このオープニングでは、バクーニンの勝村 政信がいい。(彼については、もっとあとでふれよう。)

アレクサンドル・ゲルツェンが出てくるのは、第二幕になってから。
ゲルツェンの友人のオガリョーフといっしょ。ゲルツェンの阿部 寛と、オガリョーフの石丸 幹二が出てくるので、この芝居がバクーニン、ゲルツェンの二極構造で展開してゆくらしいことに気がついた。
ゲルツェンは22歳。1812年、モスクワ生まれ。
父はゆたかな地主貴族、母はドイツ人女性。母が入籍されなかったため、アレクサンド
ルは、ドイツ系の姓名になる。
少年時代に、生涯の盟友、オガリョーフとともに――デカブリストの遺志をうけついで、農奴解放と、ロマノフ王朝の専制を打倒することに生涯をささげよう、と誓いあう。
そのくらいのことしか知らない。

阿部 寛と、石丸 幹二。この配役がよかった。いい芝居では、ほとんど互角の力量をもった役者たちが、互いに一歩もひかず、舞台のうえで火花を散らす。さしづめ、「布引」の三段目で、菊五郎、左団次が張りあう、といったおもむきのものだろう。

やがて、ゲルツェンと不倫な関係に入るナターシャ・オガリョーフ(栗山 千明)。この役の栗山 千明は、おそれげもなく美しかった。落ちついたドレスに肌が輝き、眼を奪うような漆黒の髪に、あっさりしたアクセサリが映えて。
そして、バクーニンの相手になるナタリー・バイエルの佐藤 江梨子。美貌では栗山 千明に劣らないのに、意外に平凡。もっとも、とよた 真帆のエマ・ヘルヴェークもおなじこと。女優がわるいわけではない。この戯曲では、どんな女優が出てもたいして光らない。
このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない。この芝居が男たちの強烈なパーソナリティーがぶつかりあう芝居のせいだろう。(たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。)
私にとって、意外だったのは、ナタリー・バイエルをやった佐藤 江梨子。

尾羽うち枯らしたようなベリンスキーが、やっと雑誌の編集者の仕事にありつく。スタンケヴイッチ(ゲルツェンの娘婿)に報告するところに、ナタリーが登場する。スケート靴を脱がせてもらう。
ほんらいはずいぶん印象的なシーンなのだが、佐藤 江梨子はこの役を仕生(しい)かしていない。あれほど美貌なのに、このナタリーがほとんど印象に残らないのは、佐藤 江梨子がはじめからナタリーに向いていないのか。まるで気がなかったのか。「この役を仕生(しい)かさない」というのは、そういう意味なのだ。
『ユートピアの岸へ』という芝居は、女優にとっては、じつはいちばんむずかしい部類の芝居かも知れない。その「場」の自分が、ほかの俳優たちの魅力を消しているのではないか、ということをできるかぎり、自分の内部で確かめてみなければならないのだ。 なぜなのか。私の推測では――劇作家ははじめからあまり関心がないのではないか。

ほかの女優たち、水野 美紀、とよた 真帆にしても、なんとか芝居について行っているのに、佐藤 江梨子だけがあまり輝きを見せないというのは、残念だった。
私の好みからいえば、佐藤 江梨子は『野鴨』の「ヘドヴィグ」か、『令嬢ユリエ』でもやらせてみたい女優なのだか。

麻実 れいも、この芝居では、ごくふつうのロシアの貴夫人にすぎない。
私は、しばらく前に見たテレンス・ラティガンの芝居で、イギリスの上流夫人をやっていた中田 喜子を思い出した。中田 喜子は「芸術座」に出ているときと違ってまるで魅力がなかった。この『ユートピアの岸へ』の麻実 れいは、あのときの中田 喜子のレベルだった。どうしてなのか。