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いまでは死語だが、不良少年ということば。いまでいう非行少年である。

表通りから狭い路地に入ると、清水小路5番地。
へんにおかしな地形で、まるで巾着袋をしめるようなかたちの、狭い路地をぬける。
路地の先が、広場になっていた。昔の馬場の跡だろうか。
この広場の両側に普通の住宅が並んで、奥に大きな武家屋敷があった。まだ、どこかに江戸時代の名残が残っていた。
この広場が、子どもたちの遊び場だった。

もともと気風の荒い土地柄だったのか。近所に不良少年の兄弟がいた。
兄貴のほうは、トシタカさんといって、高等小学校を出たあと、まともな仕事につかず、不良仲間といっしょに盛り場をうろついたり、客を恐喝したり、地の者を相手にケンカをする。屈強な体格のトシタカさんは、群れをつくらず、いつもひとりでいるゴリラのように見えた。

弟はコウスケさん。近所の子どもたちのリーダー格だったが、彼も不良少年だった。中学4年で停学を食らった。兄のトシタカさんとは仲がわるかった。一度、幼い私の見ている前で、トシタカさんが弟をしたたかになぐりつけるのを見た。弟も抵抗したが、トシタカさんにビンタを食わされて、泣きながらあやまった。そのときから、ただでさえ仲のわるい兄弟はお互いに口もきかなくなった。
トシタカさんは家に寄りつかなくなった。

トシタカさんとコウスケさん。兄弟どうしなのに、ジャックナイフをかまえて、隙あらば相手のドテッ腹をえぐるようなケンカもめずらしくなかった。
兄弟喧嘩の理由はわからない。

兄弟の両親は、近所でも評判の働き者で、おだやかな夫婦だった。もともと下級の武士の出だったらしい。昭和初年の当時でも零細な小商人で、間口もせいぜい2間、土間からすぐに畳敷きの店先で、木箱に糸をならべて売っていた。

幼い私はこの兄弟のすさまじい確執を見て育った。

はるか後年、ロシアの小説を読みふけったが、ドストエフスキー、アンドレーエフ、アルツイバーシェフなどを読みながら、しばしばこの兄弟のことを思い出した。

幼い私はいつもコウスケさんにくっついて動いていた。子分のいちばん下っぱに入れてもらったわけである。
近くの原っぱで、チャンバラゴッコをやるとき、いつも斬られ役だった。コウスケさんはチャンバラ役者にくわしくて、バンツマ(板東 妻三郎)、アラカン(嵐 寛寿郎)、ウタエモン(市川 右太衛門)からはじまって、羅門 光三郎、大友 柳太郎、はては、田村 邦男、岸井 明といった役者の真似をやってみせるのだった。
私は、いつか、コウスケさんがまねてみせた役者たちの出てくる活動写真を見たいと思った。

トシタカさんは、後年、中国で戦死したというウワサをきいた。弟のコウスケさんの消息は知らない。