歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
たとえば、天野 桃隣の様な例がある。
初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで、俳句を詠んだ。
三日月や はや手にさわる草の露
白桃や 雫も落ちず 水の色
昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花
などが佳句とされる。
宵に、ふと三日月を見ている。むろん、満月の趣きはない。しかし、その月のかけを見ていれば、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
しっとりと落ちついた句だが、中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはあざとく見える。
「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。
「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。
桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。
真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺
これは、芭蕉三回忌の作。
初秋や 庵 覗けば 風の音
これは、元禄八年の作。
片庇 師の絵を掛けて 月の秋
これは、元禄九年の作。
ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。
ななくさや ついでにたたく鳥の骨
七癖や ひとつもなくて 美人草
盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ
どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
考えられることは・・・桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々とも交渉がなくなったのではないか、ということ。
あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、ということ。
桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。
いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも楽しいのである。