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最近、ある週刊誌を見つけた。2冊。いずれも戦時中の「週刊朝日」。わざわざこんなものを見つけ出して読むのは、私だけだろう。

1冊は「週刊朝日」(1945年3月18日号)。A4判、22ページ。

表紙は、小磯 良平。若い飛行兵ふたりが手紙か何かを見ている。題は「基地出発」。当時の読者は、特攻として出撃する予科練の若人を想像したはずである。
戦後の小磯 良平が、若い女性の姿を描きつづけたことを知っている人は、このデッサンに深い感慨をもよおすだろう。
ことわっておくが、私は小磯 良平が戦争に協力したなどというのではない。まして彼を非難するつもりはない。

1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による空襲で壊滅した。この空襲による死者は十万人を越えた。

この「週刊朝日」は、大空襲の直後に出た週刊誌だろう。というのは、前号(3月11日号)が無事に出たとしても、3月18日号は、編集の途中で3月10日の大空襲にぶつかったはずである。これほどの大空襲に見舞われるとは編集部の誰も予想していなかったと思われる。
小磯 良平の表紙も、おそらく空襲より前に依頼されて描かれたものと見ていい。

3月18日号に掲載されている時局に関する記事。
当然ながら、国民の戦意昂揚を目的とするものばかりだが、西田 直二郎(京都帝国大教授、文学博士)の、「今ぞ戦争完遂の神機 大化改新・祖先の功業に偲ぶ」というエッセイが巻頭をかざっている。

今や昭和の大御代(おおみよ)となり、大東亜聖戦のただ中に大化改新より一千三百の歳月をここに向へたのである。大化改新の精神は長い歴史を経て却って強くも此の年に際りて輝きて生き来ったと言へる。

こういう空疎な文章が氾濫していた時代だった。

陸軍航空本部、森 正光中佐が、「敵の航空作戦を暴く 夜間の大編隊都市爆撃は必至」という論文を書いている。厚生省の医師、瀬木 三雄は「集団疎開 本土戦力の急速強化ヘ」をとなえる。
「週評」というコラムでは、「敵機何するものぞ 見よ焼跡に不屈の闘魂」といさましい記事。

「決戦大臣あれこれ談義」というインタヴューでは、大達内相の「頼もしきかな 罹災者の戦意」という記事。記者は、津村 秀夫。なにしろ、娯楽用の映画フィルムがなくなって、ろくに映画も公開されなくなったため津村 秀夫がこんなインタヴューを担当したらしい。

今の読者に教えておけば――津村 秀夫は、戦後も「Q」というサインで映画批評を書いていた映画批評家。著書も多い。
(つづく)