歴史上、すぐれた業績をのこした人は、ほとんど例外なく読書家だったという。
そうだろうなあ。
なかには、常識では考えられないほど大量の書物を読みこなしている人もいる。
トーマス・アルバ・エディスンは、自分の読んだ本を1冊、2冊と数えなかった。本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といっていたとか。
少年時代に、沢田 謙という人が書いた『エジソン伝』(新潮文庫)を読んだ。
これがじつにおもしろかった。小学生向きに書かれた伝記ではなかったが、なによりもまず、少年時代のエディスンの生きかたに心を奪われた。少年なのに、新聞を創刊したり、無線電信の技手になって、州議会の投票の電化を考えたり、なんでも「発明」したり。
私は、はじめて伝記のおもしろさに夢中になった。
沢田 謙の『エジソン伝』は、愛読書になった。私は何度も何度もくり返して読んだ。
その後、つとめて沢田 謙の書いたものを探すようになった。世界の感動美談といった、いまでいうノン・フィクションを書いていたが、『エジソン伝』ほどおもしろいものではないので、夢中になって読むこともなかった。
おなじ伝記でも、ただおもしろいだけでなく、もっと深く人間性を追求しているものがあることに気がつきはじめた。
沢田 謙や、野村 愛正、加川 豊彦、吉田 甲子太郎(朝日 壮吉)といった人の書く伝記ものは、どこかウソっぽい感じがあった。
あまり才能のない、たいして想像力に恵まれていないもの書きでも、偉人や、有名な人物の伝記でも書いていれば、けっこう文学者のような顔をしていられるらしい。そんなことをぼんやり考えたような気がする。
エディスンは、自分の読んだ本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といったという。偉人伝にありがちな伝説と見てもいいが、実際にエディスンは、多読を可能にする速読法を身につけていたのかも知れない。
若い頃の私だって、読みやすくて、内容もさしてむずかしくない新書版、文庫程度なら、毎日5冊、10冊と読みとばしていた。別にむずかしいことではない。
モームが嘆いていた。若い頃に、読書についてきちんとした指導を受けていたらずいぶんよかったに違いない、と。けっきょく、自分にはあまり役に立たなかった本に多くの時間をついやしたことを思うと、ためいきが出る、という。
私は、モームのような読書家ではないので、くだらない本にあまりにも多くの時間をついやしたことを後悔しない。ただ、ある国の社会を理解するには、おびただしい、二流、三流のミステリー、三文小説を読むのがいちばんいい、と思ってきた。
私は、博学多識など、すこしも敬意をもたない。
京都町奉行の神沢 与兵衛の『翁草』正続二百余巻よりは、上田 秋成の『癇癖談』、平賀 源内の『放屁論』一巻のほうが、はるかにおもしろい、と思っている。
まだ、読んでいない本のことを考えると、ためいきが出る。
ただし、あわれなことに、いまや、私の読書のスピードは落ちている。というより、早く読む必要がなくなっている。気ままに本を読み散らしているので、昔読んだ本をもう一度読み直してみたり。
若い頃に読んですごい傑作だと思ったものが、いま読んでみると、たいしたものではなかったり、逆に、若いときにはよく見えなかったものが、老いぼれて、やっと見えてきた、なんてこともあったりして。(笑)