1114 Revised

ある日の私は気ままな旅をつづけている。
明治初年の日本人労働者の苦闘をしのばせるケニヨン・ロードを通って、バギオに着いたのは夕方だった。人口、五、六万の小さな都会で、標高1500メートルの高原にあるだけに、日本の秋に似て、少し肌寒いほどの季節だった。

バギオに着いてから、自分の迂闊さに気がついた。マニラからノン・ストップの高速バスに乗ったのだが、その日遅く着いたので、マニラに戻る手段がなかった。
当時のフィリッピンは、マルコス大統領の緊急立法によって、深夜12時から朝まで、外出禁止時間(カーフュウ・タイム)がきめられている。悪いことに、私はマニラのホテルにパスポートを預けたままで、気まぐれにバスに飛び乗ってしまったのだった。

夕闇がひろがっている。
かすかな不安をおぼえながら、とりあえずホテルをさがそうと思った。見知らぬ町で、ホテルをさがす私は、おのれの孤独と寄り添うような姿だったにちがいない。

バーナム公園の近くで、ふたりの少年に会った。
ひとりは、まるで中南米の黒人を思わせる顔つき、肌の色で、もうひとりは、華僑のような少年だった。私はこの少年たちをつかまえて、しばらく話をした。
黒人に似た少年は、アートゥロ、13歳。もう一人は、ジェリー、11歳。意外なことに、ふたりは従兄弟どうしだという。
ジェリーははしっこい感じで、少し話しただけで、利発な少年だとわかった。
私は、少年たちと話をしているうちに、「パインズ・ホテル」という
「どこでもいい、落ちついた、上品なホテルにつれて行ってくれないか」
と頼んだ。

少年たちがつれて行ってくれたのは、どう見ても、けばけばしくていかがわしい雰囲気の安ホテルだった。というより、娼家(ボルデッロ)だった。

少年たちには、この娼家(ボルデッロ)が、いちばんいいホテルに見えたのだろう。あるいは、異国人の私を見て、あてどもなくさまよう旅人とみたか。
まだ、反日感情がつよく残っていた時期のこと。

私は、その夜、バギオ高原の山の中で、タクシーをひろった。外出禁止時間(カーフュウ・タイム)を過ぎていたから、タクシーをひろったのはまったくの偶然だった。
老人の運転手が、自宅につれて行ってくれた。妻に先立たれ、ひとり暮らしで、タクシーの運転手をやっているという。60代の後半か、70代になっていたか。

老人は、私が空腹と見て、パンとバタ、紅茶を出してくれた。

その夜、私は、マニラから脱出して北方に敗走した旧日本軍の惨状と、追撃するアメリカ軍の話を聞いた。
夜がしらじら明けてから、私は誰も歩いていないバギオの町を歩いて、少年たちが案内してくれたボルデッロに戻った。
ボーイが眠そうに眼をこすりながら、ドアを開けてくれた。

1113

歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
たとえば、天野 桃隣の様な例がある。

初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで、俳句を詠んだ。

三日月や はや手にさわる草の露
白桃や 雫も落ちず 水の色
昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

などが佳句とされる。

宵に、ふと三日月を見ている。むろん、満月の趣きはない。しかし、その月のかけを見ていれば、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
しっとりと落ちついた句だが、中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはあざとく見える。

「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

これは、芭蕉三回忌の作。

初秋や 庵 覗けば 風の音

これは、元禄八年の作。

片庇 師の絵を掛けて 月の秋

これは、元禄九年の作。

ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

ななくさや ついでにたたく鳥の骨
七癖や ひとつもなくて 美人草
盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
考えられることは・・・桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々とも交渉がなくなったのではないか、ということ。
あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、ということ。
桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも楽しいのである。

1112

若い頃に読んだ本を読み返している。
私は何を理解したつもりでいたのか。苦い思いがこみあげてくる。
たとえば、モンテーニュ。

はじめてモンテーニュを読んだのは戦後すぐだったが、当時の私は何も理解しなかったはずである。はじめから理解できなかった。まるで、おもしろくなかった。

ひとりごとをいうことが気違いの態度でなければ白状するが、私は自分に向かって、「このバカやろう」とどならない日は一日だってない。けれども、これが私を定義するなどというつもりはない。

今の私なら、自分に向かって、青二才のくせにモンテーニュを読んで、おもしろくなかったなどとホザきやがって「このバカやろう」とどなってもいいところだが。
40代になってから、もう一度、モンテーニュを読みはじめた。
ほんのわずかだが、モンテーニュのいうことがわかりそうな気がしてきた。

今頃になって読み返してみると、モンテーニュの偉大さが、昔よりもずっとよくわかってくる。
中田 耕治なんて、まったくどうしようもないアホウだなあ。

神様は、われわれに引っ越しの用意をする暇をお与えくださっているのだから、
その準備をしよう。早くから友人たちに別れを告げておこう。

いつの日にかこんなことばが、ごく自然にいえるようになりたいと思う。

1111

ある人生相談。

テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされたり、発表会で舞台に出なくてはなりません。先生もテレビの人ではなく舞台の人です。出なくてはいけないのでしょうか。
――プロダクション系養成所 18歳 女

失礼ですが、きみがテレビタレントになれる可能性は絶無といっていいでしょう。
一日も早くその養成所をやめて、別の仕事(アルバイト)でもさがしたほうがいい。

テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされた、とこぼしているきみは、まったく不適格です。テレビタレント志望者に読ませるテレビ台本など、あるはずがない。バラエテイの構成台本など、いくら読んでもテレビタレントにはなれないのです。

発表会などの舞台に出ても仕方がない、と考えるだけで、きみがテレビタレントになれないことがわかります。どんなに小さな役でも、舞台を見ているひとには、きみの容姿、歩きかた、息づかい、手のつかいかた、ファッション・センス、健康、生理、きみに魅力があるかどうか、すべて一瞬で見届けるのです。
指導する先生がテレビ関係者ではなく舞台の人だそうですね。
現役のテレビの演出家が、そんな養成所できみたちを指導することなど考えられないでしょう。現場のADか何かがきみたちを指導するとして、何を指導するのでしょうか。

きみはどんな養成所に通ったところで、けっしてテレビタレントにはなれない。
もしタレントになれるとすれば、インチキな芸能プロダクションの「面接」をうけて、あられもないシーンを撮影されて、AVの女優になることぐらいでしょう。
こういう女の子を、ギョーカイではバッタというようですが。

もし私が相談を受けたら、こんなふうに答えるだろうな。

1110

(つづき)
荒唐無稽なデマがながれる。
ソ連兵が新潟に上陸、農業倉庫をさしおさえた。日本の女たちは慰安婦にされ、男たちは全員が去勢される。無数のデマがひろがったため、笑えない喜劇が全国で起きた。どうせ接収されてしまうのなら、という理由で、各地の倉庫の品物を分配した村々。
アメリカ兵は肉食だから、という理由で、飼育している家畜をみんなで食べてしまった村々。中国兵がニンニクやタマネギを好む、という理由で、貯蔵してある野菜をすべて放出したり、焼き捨てたり。
混乱のなかで、各地の航空隊から、残存した戦闘機が飛来してビラをまいた。戦争継続を訴えるためだった。すさまじい爆音が都民を威圧したが、もう戦争気分は消えていた。

一方、戦争が終わって、また戦前の暮らしに戻れるというので温泉に出かけたり、のんびり木曽の御嶽さんに登る連中もいた。

灯火管制が正式に解除されたのは八月二十日からだが、敗戦の当日の夜の街も住宅もいっせいに明るさをとり戻しはじめていた。
映画館も、22日に再開されたが、実際には敗戦の三日後には、それまで上映していた映画のかわりに、どこからか見つけてきた戦前のフィルムや、無声映画を上映した映画館が出てきた。とにかくアナーキーな、やけのヤンパチといった気分が渦巻いていた。

虚脱感。絶望感。怒り。やけっぱちのなかで、バカバカしさを笑いとばすような、あっけらかんとした明るさ。敗戦直後からの1週間のバカバカしさってなかった。
たちまち、戦後のすさまじい荒廃がつづいてゆくのだが。

「週刊朝日」(1945年3月18日号)。おなじく「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
現在の私は、偶然に入手した週刊誌を手にして、東京大空襲と、敗戦後のてんやわんや、やっさもっさを思い起こしている。

1109

(つづき)
敗戦直後の「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
まず興味をもったのは、織田 作之助のエッセイ、「永遠の新人 大阪人は灰の中より」というエッセイだった。
なぜか。
この1945年3月14日に、大阪が大空襲をうけた。織田 作之助は、(私がとりあげた)「3月18日号」のつぎの号に、戦災の体験を発表している。そして、この合併号に執筆を依頼されたのは、敗戦直後の8月17日。

既に大阪には新しい灯(ひ)が煌々と輝き初めたではないか。旧人よ去れ。親に似ぬ子は鬼子といふが、新人はつねに旧人に似ぬ鬼子だ。

という。織田 作之助の気概を思うべきだろう。
この作家は、戦後、流行作家として知られたが、1947年1月に死去。

敗戦直後の「週刊朝日」に、周 作人の「明治文学の追憶」というエッセイが掲載されている。これもまた、私には驚きがあった。(ここではふれない。)
前号(つまり、戦争終結)まで続いた岩田 豊雄の『女将覚書』が完結した。日露戦争の時代に、横須賀で艶名をとどろかせた料亭の女将の半生記。海軍の話なので、急遽、打ち切られたのだろう。
岩田 豊雄は『海軍』を書いたため、戦後、公職追放処分をうけたが、獅子 文六の名で、『てんやわんや』、『自由学校』、『やっさもっさ』などを書く。
岩田にかわって、阿部 知二の『新浪人伝』の連載が予告されている。(私はこの作品を知らなかった。)

この号の定価、六十銭。敗戦直後のインフレーションの最初のあらわれ。
そして、デマが流れ、すさまじい食料難がおそいかかってくる。
敗戦の翌日には、有楽町、新橋の焼け跡に、闇屋がひしめき、あやしげな蒸しパン、雑炊、ふかしたサツマイモの切れっぱしが並んだ。飢えた人たちが、そんな食いものに押し寄せる。
(つづく)

1108

最近、見つけた「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。A4判、32ページ。定価、六十銭。(3月18日号)が、20銭だったのに、この号は60銭にあがっている。敗戦直後から、狂乱物価が庶民の生活を直撃する。

表紙は、佐藤 敬。何かの植物を背にして、ワンピースを着た女性。それほど若くはない。バスケットをかかえている。表情はうつろ。バスケットの中にはリンゴが数個並んでいる。「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気もちはよくわかる」ということなのか。
この号が、9月2日/9日の合併号になっていることからも、敗戦後の混乱が読みとれる。アメリカ軍の第一次進駐部隊の一番機が、厚木基地に着陸し、マッカーサー元帥が日本本土に降り立ったのを見届けて――緊急に編集会議が開かれて、それまでの戦時色を一掃する編集方針がきまったのだろう。
巻頭論文は、第一高等学校校長、安倍 能成の「日本の出発」。

一億玉砕といふ恐ろしい詞がつい今しがたまで軽易に繰返された。併し日本は敗れて敵の申出を受諾した。それも屈辱を極めた受諾であった。

という書き出し。安倍 能成は、これより後、「平和日本」の出発にかかわってゆく。

つぎのぺージは、「この悲劇乗り越えん」と題した社説のごとき文章。

終戦議会――我々国民が嘗て夢想だにしなかった運命的な日はやってきた。

という書き出し。
清瀬 一郎のエッセイは、

わが国は新しき政治に進発しなければなりませぬ。しかもそれは極めて根本的の出直しであることが必要であります。

なぜ敗戦したか、まずふかく反省せよ、という論旨。そして、このなかで、原子爆弾の使用は戦争犯罪なり、とする。このエッセイを書いた清瀬 一郎は、やがて日本の戦争指導者をさばく東京裁判で弁護人をつとめる。
(つづく)

1107

(つづき)
「週刊朝日」(1945年3月18日号)。定価、二十銭。

短歌の選者は、斉藤 瀏。戦時中に威勢がよかった歌人。

自転車の姑娘続くうららかさ北京の春は今さかりなり

これは中支派遣軍の兵士が寄せたもの。

隊長の机の上に戦友等つぎつぎ置き去る遺言の包

これは傷病兵が詠んだもの。
俳句の選者は、富安 風生。

菊咲いて日本晴のビルマかな

これも傷病兵が詠んだ俳句。

連載小説は、山岡 壮八の『寒梅賦』。南方の前線基地で、航空隊の特攻を指揮した海軍の提督、有馬 正文中将伝。見開き、2ページ。

この号の映画広告は、2本。
黒沢 明の「続 姿三四郎」。前作、「姿三四郎」とキャストはおなじだが、比較すべくもない凡作だった。広告の大きさは、タテ 4センチ2ミリ、ヨコ 6センチ6ミリ。
もう1本は、佐々木 康監督の「乙女のゐる基地」。松竹映画。近日封切。
笠 智衆、佐野 周二、東野 英治郎、原 保美、水戸 光子ほか。
「大空の下 愛機の整備に打込む 戦ふ女性の凛烈の気迫! 決戦女性の生活指標を描く!」
広告のサイズは、タテ 6センチ、ヨコ 8センチ。

私はこの映画を見ていない。3月10日の空襲で焼け出されたため、まったく無一物のまま、学徒動員で川崎の工場に通わなければならなかった。生きるのがやっとという状況で映画を見るどころではなかった。

紙質がひどくわるい週刊誌を手にする。ひたすら敗戦にむかって崩れ落ちてゆく時期の日本の姿が透けてみえる。
この週刊誌を手にする私の内面には、けっして消えることのない思いがえぐりつけられている。

1106

最近、ある週刊誌を見つけた。2冊。いずれも戦時中の「週刊朝日」。わざわざこんなものを見つけ出して読むのは、私だけだろう。

1冊は「週刊朝日」(1945年3月18日号)。A4判、22ページ。

表紙は、小磯 良平。若い飛行兵ふたりが手紙か何かを見ている。題は「基地出発」。当時の読者は、特攻として出撃する予科練の若人を想像したはずである。
戦後の小磯 良平が、若い女性の姿を描きつづけたことを知っている人は、このデッサンに深い感慨をもよおすだろう。
ことわっておくが、私は小磯 良平が戦争に協力したなどというのではない。まして彼を非難するつもりはない。

1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による空襲で壊滅した。この空襲による死者は十万人を越えた。

この「週刊朝日」は、大空襲の直後に出た週刊誌だろう。というのは、前号(3月11日号)が無事に出たとしても、3月18日号は、編集の途中で3月10日の大空襲にぶつかったはずである。これほどの大空襲に見舞われるとは編集部の誰も予想していなかったと思われる。
小磯 良平の表紙も、おそらく空襲より前に依頼されて描かれたものと見ていい。

3月18日号に掲載されている時局に関する記事。
当然ながら、国民の戦意昂揚を目的とするものばかりだが、西田 直二郎(京都帝国大教授、文学博士)の、「今ぞ戦争完遂の神機 大化改新・祖先の功業に偲ぶ」というエッセイが巻頭をかざっている。

今や昭和の大御代(おおみよ)となり、大東亜聖戦のただ中に大化改新より一千三百の歳月をここに向へたのである。大化改新の精神は長い歴史を経て却って強くも此の年に際りて輝きて生き来ったと言へる。

こういう空疎な文章が氾濫していた時代だった。

陸軍航空本部、森 正光中佐が、「敵の航空作戦を暴く 夜間の大編隊都市爆撃は必至」という論文を書いている。厚生省の医師、瀬木 三雄は「集団疎開 本土戦力の急速強化ヘ」をとなえる。
「週評」というコラムでは、「敵機何するものぞ 見よ焼跡に不屈の闘魂」といさましい記事。

「決戦大臣あれこれ談義」というインタヴューでは、大達内相の「頼もしきかな 罹災者の戦意」という記事。記者は、津村 秀夫。なにしろ、娯楽用の映画フィルムがなくなって、ろくに映画も公開されなくなったため津村 秀夫がこんなインタヴューを担当したらしい。

今の読者に教えておけば――津村 秀夫は、戦後も「Q」というサインで映画批評を書いていた映画批評家。著書も多い。
(つづく)

1105

(つづき)
ゲイリー・クーパーについて・・・・

日本流に数へて二十九歳の好青年。とはいつても昔風な優男一点張りでないことは勿論。情があって、それでゐて男らしい。身長だって六尺二寸といふ大男だ。
たとへば皆さんの中でもこの青年を嫌ひだといふキネマ・ファンは絶対にないと思ふのですが、いかがですか? 髪は褐色、瞳は清澄な青色。
まだ独身です。舞台経験はない。出演映画の主なものは「つばさ」、「ライラック・タイム」等等。

まだ「モロッコ」が封切られていなかったことがわかる。

ゲイリー・クーパーは、1926年、「バーバラ・ウォースの勝利」に、エキストラとして出演してから、1960年、アカデミー賞、特別賞を受け、翌年亡くなっている。
戦前の代表作は、「モロッコ」(30年)だが、{武器よさらば」(32年)、「生活の設計」(34年)、「マルコ・ポーロの冒険」(38年)など。
私たちは、戦後になってあらためて、「誰が為に鐘は鳴る」(43年)、「サラトガ特急」(44年)から「真昼の決闘」(52年)まで、ハリウッドを代表する大スター、ゲイリー・クーパーを見直すことになったのだった。

彼は、いつも「平均的なアメリカ人・ジョー」を演じつづけた。ミスター・ジョン・ドウの典型である。彼の信条は、じつに単純なものだった。
アーサー・ミラーの『セールスマンの死』について、

たしかに、ウィリー・ローマンみたいなやつはいるよ。だけど、そんな連中のことを芝居にする必要はないさ。

アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。

この顔ぶれは、昭和初年の日本女性に人気があったスターだったのだろう。いずれも「天分と容姿」に恵まれたスターたちだが、現在、彼、彼女たちの映画を見ている人がいるだろうか。
この時期、中国では「上海摩登」(モダン)が登場する。チーパオを着たクーニャンが颯爽と歩いていた。日本で公開されない映画も上海では見られた。

小さな投書から、私の連想はつぎつぎにひろがってゆく。ときどき、自分でも収拾がつかなくなるのだが。

1104

こんな投書を見つけた。ある婦人雑誌(昭和4年12月号)から。

今年四月高女を卒業したもの、映画女優志願。家にいて手続できますか。金は沢山入用ですか。会社は。   (滋賀県、京子)

「婦人立身相談」。回答者は答えている。

本欄としては初めての御質問です。これは天分と容姿の問題で、私が会社側の立場としていへば、身長五尺二寸以上、容姿普通以上、健康にして労働を厭はず演芸に趣味を有し研究心ある者ならば合格線に近いわけです。ただ単なる憧憬なら不賛成。家人によく相談して御覧なさい。会社にして堅実なるものは日活、松竹共に第一流ですが入社は困難でせう。かうした会社で時々臨時雇を募集することあり、その節テストに応じて見こみがなかったら諦めることです。

映画スターを夢見た京子さんは、きっと美人だったのだろう。ただし、「天分と容姿」ということになれば、ごくありきたりの「美人」では通用しない。
京子さんは「家人によく相談した」のだろうか。「ただ単なる憧憬なら不賛成」どころか、その不心得を説諭されたにちがいない。

容姿に関して、身長五尺二寸というのも、当時の女性の平均をこえていたレベルなのだろう。体重は? 私としては知りたいところだが。
さて――日活、松竹のその後を知っている私たちには、露槿すでに秋を傷(かな)しむ思いがある。
金は沢山入用ですか。これには返答のしようがない。だから答えていないのだろう。

この1929年、サイレント映画はまさにトーキーと交代しようとしていた。
一つの芸術の決定的な消滅と、別の表現形式の登場だったが、その衝撃の大きさにまだ誰も気がつかない。
当時、最高の人気を誇っていたメァリ・ピックフォード、コリーン・ムーア、グローリア・スワンソン、ビリー・リリー、クララ・ボウといったスターたちも、はげしい運命の転変を経験しようとしている。

「婦人世界」は、ハリウッドのスターたち、13名を紹介している。

アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。                   (つづく)

1103

ある晩、私は酒場「あくね」で飲んだあと、お茶の水に向かっていた。たまたま明治大学の正面前から歩いてきたふたり連れがいた。ふたりとも、いいご機嫌のようだった。
作家の田中 小実昌と、翻訳家の山下 諭一だった。

「中田さん、マリリン・モンローのスリー・サイズをおしえてください」
田中 小実昌がいった。

こういう質問には警戒してかかる必要がある。
田中 小実昌は、すっかり出来あがっていて、いいご機嫌だったから、私を見かけて、たちまちとっぴょうしもないことを切り出して、困らせてやれと思ったのかもしれない。
だから、悪意があってのことではない。

マリリン・モンローのスリー・サイズは、
39 24 37
37 23 38
36 26 36
どれも、よく知られている。

女性の人生の時期によってスリー・サイズが変化するのは当然だろうが、私はマリリン・モンローのスリー・サイズに関心はなかった。そんなことはどうでもいい。ある時代、ある場所にひとりの女が生きたということは、それだけで孤立してとらえるわけにはいかない。
女のスリー・サイズを知ったところで、その女の美しさをどれほども説明できるものでもない。

田中 小実昌が、いきなりそんなことをいい出したのは、私がマリリン・モンローの評伝めいたものを書いていたからである。そんな仕事をしながら、身すぎ世すぎのために雑文などを書いている。
田中 小実昌は、ミステリーの翻訳家として知られていたが、この頃からすぐれた短編を書きはじめていた。作家として知られてきただけに、マリリン・モンローなどに入れあげている私をからかってやろうとしたのだろう。
山下 諭一はニヤニヤしていた。

私は、「36 26 36だと思います」
そう答えた。

そのまま、ふたりと別れたが――あとになって、田中 小実昌と、山下 諭一がいっしょになって、私のことを大笑いしているだろうな、と思った。

なんでもない話である。しかし、私の内部には何か澱のような気分が残った。

1102

歴史上、すぐれた業績をのこした人は、ほとんど例外なく読書家だったという。
そうだろうなあ。

なかには、常識では考えられないほど大量の書物を読みこなしている人もいる。
トーマス・アルバ・エディスンは、自分の読んだ本を1冊、2冊と数えなかった。本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といっていたとか。

少年時代に、沢田 謙という人が書いた『エジソン伝』(新潮文庫)を読んだ。
これがじつにおもしろかった。小学生向きに書かれた伝記ではなかったが、なによりもまず、少年時代のエディスンの生きかたに心を奪われた。少年なのに、新聞を創刊したり、無線電信の技手になって、州議会の投票の電化を考えたり、なんでも「発明」したり。
私は、はじめて伝記のおもしろさに夢中になった。
沢田 謙の『エジソン伝』は、愛読書になった。私は何度も何度もくり返して読んだ。

その後、つとめて沢田 謙の書いたものを探すようになった。世界の感動美談といった、いまでいうノン・フィクションを書いていたが、『エジソン伝』ほどおもしろいものではないので、夢中になって読むこともなかった。
おなじ伝記でも、ただおもしろいだけでなく、もっと深く人間性を追求しているものがあることに気がつきはじめた。

沢田 謙や、野村 愛正、加川 豊彦、吉田 甲子太郎(朝日 壮吉)といった人の書く伝記ものは、どこかウソっぽい感じがあった。
あまり才能のない、たいして想像力に恵まれていないもの書きでも、偉人や、有名な人物の伝記でも書いていれば、けっこう文学者のような顔をしていられるらしい。そんなことをぼんやり考えたような気がする。

エディスンは、自分の読んだ本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といったという。偉人伝にありがちな伝説と見てもいいが、実際にエディスンは、多読を可能にする速読法を身につけていたのかも知れない。
若い頃の私だって、読みやすくて、内容もさしてむずかしくない新書版、文庫程度なら、毎日5冊、10冊と読みとばしていた。別にむずかしいことではない。

モームが嘆いていた。若い頃に、読書についてきちんとした指導を受けていたらずいぶんよかったに違いない、と。けっきょく、自分にはあまり役に立たなかった本に多くの時間をついやしたことを思うと、ためいきが出る、という。
私は、モームのような読書家ではないので、くだらない本にあまりにも多くの時間をついやしたことを後悔しない。ただ、ある国の社会を理解するには、おびただしい、二流、三流のミステリー、三文小説を読むのがいちばんいい、と思ってきた。
私は、博学多識など、すこしも敬意をもたない。
京都町奉行の神沢 与兵衛の『翁草』正続二百余巻よりは、上田 秋成の『癇癖談』、平賀 源内の『放屁論』一巻のほうが、はるかにおもしろい、と思っている。

まだ、読んでいない本のことを考えると、ためいきが出る。

ただし、あわれなことに、いまや、私の読書のスピードは落ちている。というより、早く読む必要がなくなっている。気ままに本を読み散らしているので、昔読んだ本をもう一度読み直してみたり。
若い頃に読んですごい傑作だと思ったものが、いま読んでみると、たいしたものではなかったり、逆に、若いときにはよく見えなかったものが、老いぼれて、やっと見えてきた、なんてこともあったりして。(笑)

1101

ある劇作家がいう。

先輩の劇作家で、人気が衰えてからも劇作をつづけた例をあまりにも多く見てき
たものだ。時代が変わったことに少しも気づかず、気の毒にも、おなじような芝
居をくり返し書いているのを見てきた。また、当世ふうの好みをなんとかとらえ
ようと必死にがんばり、その努力を物笑いにされて、しょげている先輩を見た。
以前は、芝居を書いてくれと支配人に懇願されていた人気の劇作家が、おなじ支
配人に脚本をわたしても、相手にされなかったのも見たものだ。
俳優たちがそういう先輩たちを軽蔑的に、あれこれとあげつらうのも聞いてきた。
先輩たちが、今の観客が自分たちを見限ったことに、やっと気がついて、戸惑い、
呆れ、くやしがるのを見てきた。
かつては、有名な劇作家だったアーサー・ピネロ、それに、ヘンリー・アーサー
・ジョーンズが、だいたい似かよったことばで、「おれはご用ずみらしい」とつ
ぶやいた。ピネロは、むっつり皮肉をきかせて、ジョーンズは、途方にくれなが
らも、ムカッ腹をたてて、そういった。

サマセット・モームの回想。
さすがにいうことがちがうなあ、一流作家は。

私にしても、いろいろな先輩の作家や、評論家の生きかたを見てきたものだ。
1950年(昭和25年)、岸田 国士の提唱で、文壇と演劇界が大同団結して、あたらしい運動を起こすことになった。具体的には、「雲の会」の発足になった。
私は芝居に関してはまったく無縁で、どこの劇団にも関係はなかったし、将来、自分が劇作、演出などを手がける可能性など考えもしなかった。それでも、このとき、矢代 静一といっしょに、最年少のメンバーとして参加したのだった。

「雲の会」のメンバーは、半数以上が文学者だったが、メンバーにならなかった人たちは強い反感をもって見ていたと思われる。

ある日、私は、たまたま、先輩の演劇評論家、劇評家、戯曲専門の翻訳家たちの集まりに同席した。このとき、その席にいたのは、茨木 憲、西沢 揚太郎、遠藤 慎吾、尾崎 宏次ほか数名。
ひとしきり各劇団のレパートリー、俳優、女優の誰かれの話題で盛り上がっていたが、やがて若い劇作家、演出家の月旦に移った。当然ながら、私はこの人たちの話に興味をもった。
当時、すでに劇作家として登場していた福田 恆存、三島 由紀夫、加藤 道夫、中村 真一郎、矢代 静一、八木 柊一郎の仕事などに対して、みなさんの手きびしい批評がつづいて、黙って聞いていた私はおぞけをふるった。はっきりいえば、ふるえあがったといっていい。
劇評にはけっして書かないような、激烈なフィリピックスが、ごく内輪の、こういう場所では、辛辣、無遠慮におもしろおかしく語られているのか。

このとき私は考えたのだった。
このひとたちが、後輩に対してこれほどきびしい批判を浴びせるのは――じつは、自分たちが、いつの間にか、劇壇の主流からはずれて、いまや、むっつり皮肉をきかせて後輩を語るか、途方にくれ、ムカッ腹をたてて、そんなふうに当たりちらしているのではないか、と。

時代がすっかり変わったことに気づかず、いつもおなじような主題をくり返し書くようになってから、後輩に対してきびしい批判を浴びせるようなことがあってはならない。自分がみじめになるだけだ。
いまも、この考えは変わらない。