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(つづき)
戦後の日本で、いちばん最初に公開された映画が、「春の序曲」と「キューリー夫人」だった――というのは、じつは正しくない。

戦後の大変動のなかで、各地の映画館も混乱していたのではないか。
戦後すぐの浅草で、サイレント映画の「喜びなき街」(G・W・パプスト)を見ているが、六区(浅草)の映画館は、どういうルートから流れてきたのか、いっせいに古いフィルムをかけていた。キートン、ハロルド・ロイド、ローレル・ハーデイの喜劇もあったし、戦前に公開されたソヴィエトの喜劇、はては誰が出ているのかわからないサイレント映画までがあふれていた。
戦後、私がいちばん先に知った化粧品は、ヘリオトロープの香水だったが――実物を見たわけではない。トーキー初期のミステリーには、きまってヘリオトロープの香水をつけた美女が出てくるからだった。
敗戦直後の浅草に氾濫した映画のなかには、川田 芳子主演の、大楠公桜井の別れ、などという文部省推薦の珍品もあった。無声映画のスターだった川田 芳子は、この映画で「楠 正行」の母親役だったが、すっかり老女になっていた。やはり、無声映画のスターだった英 百合子や浦辺 粂子が、戦後まで女優として生きぬいたことを思いあわせると、そぞろ哀れをもよおす。
もっとも、当時の私は何も知らずにひたすら映画を見ていただけだった。

敗戦直前に動員先の工場が空襲で焼けてから、毎日あてどもなく東京を歩いていた。友人たちは、みんな応召していた。大学に学生の姿はなかった。
東京じゅうどこも、焼け跡、疎開跡ばかりで、真昼も廃墟と化していた。
古本屋を探したが、そんなものがあるはずもなかった。まだ焼けていない住宅地では、空襲の被害を少なくするために、密集した家屋のなかから何軒か間引く作業が続けられていた。撤去の指定を受けた不運な家族は、急いで引っ越さなければならない。
その家の蔵書や家具などが、道に投げ出されている。すぐに、人だかりがして、本をひろってゆく人もいた。私も思いがけない本を見つけることがあった。

そして、戦争が終わった。戦後の激動と狂乱のさなか、「ユーコンの叫び」(1938年)という映画が公開されている。(1945年12月)
戦前に封切られる予定だったのが、戦争でオクラ入りになったのだろう。「リパブリック」のアラスカもので、画面がひどく荒れていた。主演は、戦前に人気のあったリチャード・アーレン。
私は焼け残った場末の映画館で見たが観客がつめかけて超満員だった。

つづいて、翌年のお正月に「ターザン」が出た。これも、戦前(1935年)のストックもので、ターザンもジョニー・ワイズミュラーではなかった。
それでも、ターザン映画なので、観客がひしめいていた。戦争が終わった、という気分と、アメリカという国を理解しようという気もちもあったのだろう。巷では、「日米会話手帳」という、ペラペラの小冊子が、とぶように売れていた。
ターザン映画なのに、観客に子どもたちの姿はまったくなかった。戦争の被害を避けて強制的に、田舎に疎開させられていたためだろう。

そして、その2月に、戦後の日本で、最初に「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開された――ということになる。これが歴史的な事実。

例によって、私の「あおとく」。つまらないトリヴィア。