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(つづき)
戦前、「オーケストラの少女」でディアナ・ダービンを見た。可愛い少女スターだった。(当時、室生 犀星が随筆で、ディアナ・ダービンの舌について書いていた。それを読んだ子どもの私は、この作家の眼に驚愕したことがある。)戦後の「春の序曲」で、ディアナはすっかり成熟した美少女に変身していた。

ケーキのシーンも忘れられないが、もう一つ、この映画の1シーン。これも、忘れられない。

ディアナ・ダービンがたずねて行ったのは、年齢の離れている兄。さる富豪の豪邸で、執事をやっている。演じたのは、パット・オブライエン。
ふとい葉巻をくわえたパット・オブライエンが、ひろい部屋に入って、口から、まるく輪になった煙を吐き出す。別にめずらしい場面ではない。
煙はそのまま前方の壁にむかってまっすぐ進んでゆく。壁までの距離は数メートル。

煙はそのまま少しづつワッカの大きさをひろげて、前方の壁にむかって進んでゆく。
カメラは、部屋のまんなかに固定されていて、このシーンを撮っている。

ここまできて、(映画の観客は)タバコの煙がどこまで飛んで行くのか、興味をもつ。煙は空中でわずかに揺らぎ、ワッカの大きさをひろげながらも、そのまま部屋の壁にむかって進んでゆく。
2メートル。そして3メートル。

恰幅のいい俳優だったパット・オブライエンは、よほど肺活量が大きいのだろう。葉巻の煙はほとんどもとのかたちのまま空中で揺れ、からみあい、少しづつ崩れて、大きくなってくるけれど、それでもそのままの勢いで進んでゆく。
4メートル。ついに、5メートル。
(映画の観客は)息をのんで、このスタントを見つめている。

最後に、タバコの煙は直径1メートル程の大きさのまま、壁につき当たって、空中に消えてしまう。その距離は、7、8メートルはゆうにあるだろう。
これが、ワン・カットで撮影されていた。

「春の序曲」は、戦時中のアメリカとロシア(当時は、むろんソヴィエト連邦だが)の協調がたくみにアピールされているのだが、こうしたテーマとかかわりのない、パット・オブライエンの葉巻のシーンに私は驚かされた。
戦後、最初に公開されたハリウッド映画にこんなシーンがあったことなど、もう誰も知らない。誰も知らないことをいつまでもおぼえている、というのもおかしな話だが。

タバコの煙でワッカを作る。これはすぐにできるようになったが、私の吐き出す煙は、せいぜい数十センチしか飛ばない。いくら練習しても、パット・オブライエンの葉巻のシーンのようにはいかないのだった。
(つづく)