1089

早川 麻百合さん。お手紙、ありがとう。うれしかった。
つぎつぎに、新しい翻訳を出しているきみから、手紙をいただくと恐縮する。
ところで、手紙のなかで、きみは書いている。

「毎日のように先生の「コージートーク」の更新をたのしみに、拝見しております。が……先生の書かれた内容が時々、ムツカシクてついてゆけず……などと言ったら、しかられそうですね。」

え、「コージートーク」の内容がムツカシいって。
まいったナ。ムツカシいことなんか、1コも書いてないんだけど。
しかし、きみのような才女に、「コージートーク」の内容がむずかしいといわれると困っちゃうナ。
むずかしい内容のものを、できるだけやさしく書く。もの書きとしては、たいせつな心得だね。とくに、私の「コージートーク」のように、一方的に勝手なことを書いている場合は。

いつも自分の読者を考えて書いているつもり。これは、長年、ものを書いてきた習性というか、経験にもとずいているんだ。
むずかしい、てノは、そんなものを書いたヤツの頭がわるいせいだよ。中田 耕治がヤボでアホだから。やつぱし、文章技術がなってないせいだヨなあ。(笑)

老人性言語下痢症(ロゴレア)がひどくなってきて。だから、くだらねえことばかり書いているんだヨ。おまけに、ひねくれている、ときた。
古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特(せいとく)というそうな。さる俳諧の宗匠の俳名から。
なるべく「あおとく」で行こうとおもっているんだ。「あ」はあきれる。「お」はおっちょこちょい。「と」はとんま。「く」はくだらない。あるいは、娃、汚、妬、苦でもいいや。(笑)

心に浮かぶよしなしごとを気ままに書いている。書いておく価値もないこと、書く必要もないことばかり。しかし、つまらないことでも書いておけば、誰かの心に届くかも知れない。ずっと時間が経ってから――そういえば、あの頃、中田 耕治が、あんなことをいっていたっけ、と思い出してくれるかも知れないよね。

きみが毎日のように、「コージートーク」を読んでくれている。私のいいたいことをきちんと聞いてくれる人がいる、と思うとうれしくなった。
むろん、私は読者の顔色をうかがって書くことはない。何か質問してくれれば、できるだけ答えるつもりだけど。
以前、男親ひとりで息子さんを育てあげ、その子が無事に高校を卒業、就職して、社会に出たことを知らせてくれた人がいる。なんでもない報告だったが、私は感動した。息子さんを育てあげ、実社会に出したという無量の思いが、短いメールの文面にあふれていたから。私は返事も書かなかったが、この父子の幸福をおのれの身とひき較べて、わが身のいたらなさを考えないわけにはいかなかった。

ブログのような自由な形式だからこそ、そんな身辺のことも気がるに知らせてもらえる。私が本や雑誌に何か書いても読者の顔が見えないのとちがって、「コージートーク」では自分でも思いがけないアンティームな交流がうまれるようだった。
こんな「あおとく」であっても、お互いに心を通わせることができる――ような気がする。

ところで、きみの手紙を読んで、ふと、私の内部に思いがけないことが浮かびあがってきた。
何だと思う? 作家の晩年というムツカシいテーマなんだ。ギャハハ。(笑)