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一度だけ、外科手術を受けたことがある。手術というほどのものではなく、わずか1センチ幅のオデキを切徐してもらっただけ。
医師が患部にメスを入れると、皮膚が綺麗にきれて、一瞬あとに、ひとしずくの血がもりあがってきた。部分麻酔の注射をしているので痛みはない。手術も、ほんの30秒くらいで終わった。手術が成功(!)して、うれしかった。

メスがじつによく切れる。こんなものを誰が「発明」したのだろうか。うっかり医師に質問しそうになったが、われながらアホウな質問に思えた。人類学者に誰がナイフを「発明」したのかと質問しても答えに窮するだろう。だから私は黙っていた。

ほどなく、この疑問はとけた。

メスを「発明」したのは、誰あろう、かのベンヴェヌート・チェッリーニである。

チェッリーニは、イタリア・ルネッサンスに登場した。ルネッサンスについて何か知る必要があれば、彼の『自伝』を読むといい。
『自伝』(46節)に、こんなエピソードが出てくる。

若者だったチェッリーニが、ある工房で働いていたとき、主人の娘が右手を傷めた。小指、薬指の二本の指の骨が腐るという病気だった。いまなら、指の傷からバイキンが入って炎症が化膿したと見ていいだろう。
ヤブ医者の診察では――娘は、右腕が麻痺するかもしれないが、それ以上は進行しない、という。父親は、腕のいい外科医に手術を依頼した。
この先生の診断は、右手はじゅうぶんに使えるようになる。ただし、右手の小指、薬指の二本は、いくらか弱くなるかも知れない。それでも日常生活に支障はきたさない、という。
数日後に、骨の腐った部分を少し削りとることになった。外科医の先生は、何やら大きな鉄の器具で手術をしたが、娘はものすごく痛がった。
見るに見かねたチェッリーニは、八分の一時間ばかり待ってくれないか、と頼んで、大急ぎで、工房に駆け込んだ。
そして、反りを打った、ひどく薄くて、小さな鉄の器具を作った。

外科の先生のところに戻ると、こんどは、とてもやさしく手術ができた。娘は少しも痛がらず、手術もじきに終わった。

これだけの話である。どうやら――ベンヴェヌート・チェッリーニが、メスを「発明」したのは、まず間違いがない。

ただし、こんなことをさも大発見か何かのように、れいれいしくブログに書いている私はアホウである。(笑)