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『聖アントワーヌの誘惑』を書いていた時期のフローベールは、さまざまな打撃と挫折に見舞われている。
自分のよき理解者だったサント・ブーヴ、デュプラン、ジュール・ド・ゴンクールといった友人たちがつぎつぎに亡くなって、ほとんど孤立無援といった状況に追い込まれる。
しかも、この時期に愛する母を失った。つらいことが重なって、さすがのフローベールも、しばらく立ち直れない。

当時、代表作の『感情教育』を出版したが、批評はかならずしも芳しくなかった。自分では圧倒的な自信があったのに、悪評も多かった。しかも、小説のモデルにされたということで、それまで親しかったボスケという女性から絶交をいいわたされる。
出版社と対立する。
作家としては八方ふさがりといっていい。

しかも、ここにきて普仏戦争が起きている。緒戦のフランス軍の弱体ぶりに落胆したが、それよりも国運が傾いていることに、フローベールの苦悩が重なってくる。もともとひどくペシミスティックな観念にとり憑かれていたせいもある。しょせん、この世はのっぺらぼうにひろがっている地獄に過ぎない。こういう思いが、彼の魂にひろがっている。

さまざまな苦難、困難に見舞われながら、少しづつ憂愁のいろを深めていった作家に私は関心をもつ。
ただし、フローベールは大作家で、クロワッセに隠棲していた。私は作家というより、ただのもの書き、pot boiler に過ぎない。はじめからクロワッセとは違う地獄で生きている。