老人なのだから、ボケたことしか書かない。書けない。現実の動きについて行けなくなっているせい。
たとえば、GMが破産法の適用を申請した事態は、私の想像を越えていた。むろん、アメリカの産業の推移を見ていれば、1970年代から、テレビ、ビデオ、冷蔵庫といった家電メーカーが、つぎつぎに姿を消して行った。
ところが、80年代の日本がぐずぐずしているうちに、アメリカの、インターネット、パソコンを軸にして展開した情報技術産業が、世界を制覇した。日本は、これが「空白の10年」と重なって、惨憺たる状況に追い込まれた。アメリカは、これで世界経済の主導権をにぎったが、やがてIT産業はつまづいたし、金融、保険などの分野も、昨年の金融危機でおおきな打撃をうけた。
北朝鮮の核実験、さらには核攻撃の現実的な脅威、新型インフルエンザの登場、やがて冬季に於けるヴィールスの変化、どれひとつとして私などの理解できる現象ではない。
こうした「現実の動き」は、私などにとっては、ほとんど理解を越えている。
私に考えられるのは、それぞれが無関係な事象であっても、ここにきて、私たちはいやおうなく歴史的な曲がり角にさしかかっている、という認識が私の内部にも生まれつつある、ということ。
ある研究者の説くところでは――現在、あの世を信じる、または奇跡を信じる20代の若者が、2003年から8年間で、
あの世を信じる若者は、15パーセントから23パーセントに、
奇跡を信じる若者は、30パーセントから36パーセントに、
ふえたという調査結果を示している。
そして、若者は「脱呪術化」ではなく「再呪術化」されている、という。
この調査結果を見て、自分はどう答えるだろうか、と考える。
あの世を信じるか。私は信じたいと思う。しかし、信じうべき理由が見つからない。
私は奇跡を信じるか。これは、答えられない。どういう事象をもって、奇跡と見るべきなのか。具体的に語ることができないからだ。
さりとて、いまや、若者たちのあいだで、進歩、夢、未来といった価値観が融解している、などと見るわけはない。
私がボケたことしか書かないし、書けないことを少しも恥じてはいない。わからないことはわからないと見ているだけである。わからないことが多すぎるけれど。