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向井 去来(1651-1704)は、まじめな人だった。芭蕉門下でも、君子人として知られている。
元禄4年、野沢 凡兆とともに『猿蓑』の編纂にあたった。

あるとき、去来が一句を詠んだ。

戀すてふ おもへば年の敵かな        去来

この句の意味は――恋愛をしてしまった。ところが、自分はもういい年なので、恋愛沙汰などというのは、どう考えても、身命にかかわる、年甲斐もないことなのだなあ。
そんな心境を詠んだものらしい。ただし、あまりいい句ではない。

初五の「戀すてふ」が、どうもすわりがわるい。
「恋をするということ」は、という意味が、「年の敵かな」にうまく対応していない。もっとよくないのは、この句には「季」がない。
つまりは、俳句ではない、ということになる。まじめな去来は、自分でも、どういうふうにしていいのかわからなくなってしまった。

たまたま、大先輩の俳人、伊藤 信徳に見てもらった。信徳は、この初五を変えた。

戀さくら おもへば年の敵かな

信徳は「花は騒人のおもふ事切なり」という。ようするに、桜は、昔から詩人たちが美しいと愛でてきた。戀もおなじことで、年齢を忘れて人を恋うることの、切なさ、やるせなさも「さくら」をひきあいに出せるのではないだろうか。
去来は、信徳の手直しにしたがわなかった。

元禄3年、芭蕉は、長旅を終えて、京に戻ってきた。去来は、芭蕉にこの句を見せた。

芭蕉は答えた。「戀すてふ」を「戀さくら」に変えたところで、別にいい句になったわけでもない。「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」と。

その後、野沢 凡兆が、この句の初五を変えて、

大歳を おもへバ年の敵かな        凡兆

「大歳」は、大晦日。つまり、一年が過ぎようとしている。いよいよ、大つごもり。考えてみると、こうして年の瀬を過ごしていると、ほんとうに過ぎこしかた、行く末を思う、自分の年齢にはかたきのようなものだなあ。
芭蕉は、「まことにこの一日、千年の敵なり。いしくも(いみじくも)置きたるものかなと、大笑し給ひけり」と、いった。

私も凡兆の改作をよしとする。しかし、凡兆の手直しに、去来としては不本意だったのではないか、と思う。
「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」というあたりに、芭蕉の大きさをみていいが、芭蕉が大笑いしたのは、どういじっても、いい句にならないのに、こだわりつづけた去来をあわれんでのことではなかったか、と思う。
だが、私はこの芭蕉にあえて異を唱える。

去来が詠みたかったのは、自分はもういい年なのに、恋愛沙汰などを考えている。そういう年甲斐もないことにかかずらうおのれの卑小、つたなさではなかったか。

大歳をおもへバ としの敵哉       凡兆

などという感慨は、この去来にはかかわりがない。
私にいわせれば、芭蕉には去来のみじめさが見えていないのだ。俳句としても、この句ははじめから無季でいい。この句にふれた人が、それぞれの季節を心において読めばこの句の情趣は成立する。それでいいではないか。この芭蕉をわたしはひそかに憐れむ。
去来は気まじめな人だったが、ときには、

稲妻や どの傾城と かり枕

といった洒脱な句を詠んだほどの人ではなかったか。