あるテレビ・ドラマ。高校2年の「飛鳥」は、周囲からは「男の中の男」と一目置かれている。ところが、ほんとうは女性的な趣味をもった「オトメン」(乙男)だった。
ある日、「飛鳥」のクラスに、愛らしい転校生、「りょう」があらわれる。ところが、彼女は……
最近のテレビ・ドラマには、こうした性的なトランスフューズ、あるいは、トランスマイグラントをテーマにするものが良く見られる。
その基底には、おそらく美少年、美少女に関する私たちの観念の変化がひそんでいる。
「イケメン」などといういい加減な概念がうごめいている。
ふと、大正期の美少女を思いうかべた。
環は不思議にも妖しき美しさをもつ少女だった。母を幼くして失ったまま、後は父と子とたたぜふたのありのみの境遇のせいか、環そのひとには世の常の少女と異なって、どこかに雄々しい凛々しさが、姿形の中に現れていた。眉の濃く秀でたのも、眼に張りのあるのも、口許の締め方も、すべてが、そして美しく快い・・・・級の誰かが戯れて言うた。「環さんは、まるで早川雪州とモンロー・ソルスベリーと伊井蓉峰を臼の中でつき混ぜて、お団子にして、その上へ福助の女形の柔らか味の黄粉を仄かに振りかけたような感じのする方ね」と。その評のもし的を射たものとすれば、環は美少年といふのが、ふさわしいかも知れない、けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、環は少女だった、少女だった。
吉屋 信子の『花物語』、その一編「日陰の花」の少女の紹介である。
「早川雪州」と「伊井蓉峰」は私も見ている。しかし、私の見た雪州は、せいぜいが「戦場にかける橋」だったし、伊井にしても、喜多村、小堀につきあっての舞台を見た程度だから話にならない。「モンロー・ソルスベリー」という映画スターはまるで知らない。
「福助」も見ているが、まさか『花物語』に出てくる「福助」ではないだろう。
しかし、ここには、作家のレズビアニズムがほの見えるのと、美少年に見まがう美少女の登場が語られている。
けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、美少女は美少女だった、美少女だった。
というようなナレーションは、すでに死に絶えてしまった。「イケメン」ということばも、いずれ死に絶えるだろう。