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ブリジット・バルドー。
1952年、ある雑誌の表紙に登場したのをきっかけに、映画にデビューした。
代表作に「素直な悪女」(56年)、「裸で御免なさい」(56年)、「可愛い悪魔」(58年)、「私生活」(61年)など。

いつか、作家の結城 昌治が書いていた。

「アメリカ映画のほうでは、一足早くM・モンローがセックス・シンボルにまつりあげられて、その演じた役は無邪気でセクシーな可愛い女にちがいなかったけれど、私にはピントが合わなかった。彼女のコケットリー(媚態)、つまり男を異性として意識するポーズが気にさわっていた。意識された部分にハリウッド的な商業主義の匂いがした。
そういうモンローとの対比においても、バルドーの出現はショッキングで、すばらしかった。彼女は可愛い女などではないし、悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を越えて、存在自体が官能の美しさを誇示していた。」

バルドーの出現がほかの女優にましてショッキングで、すばらしかったことも知っている。彼女と同時代のヨーロッパの美女たち、ジーナ・ロロブリジーダや、ミレーヌ・ドモンジョ、ロッサナ・ポデスタたちと比較しても、バルドーの存在自体が、際立って官能的な美しさを誇示していたと見ていい。私は結城 昌治と違って、ブリジットにあまり関心がなかった。
たしかに、可愛い女などではないし、はじめから悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を超越していたことも、じゅうぶんに認める。
マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」の写真のモデルになったことと、最後の「女房は生きていた」のプールサイドで、ヌードになっただけなので、バルドーのように映画でフル・ヌードを堂々と見せることはなかった。

バルドーのような女優をひとことでどう表現したらいいのだろうか。
むろん、私などにはとても表現できないのだが、ある本でバルドーをさして、
Pulchritudinous French Actress と紹介していたので、感心したおぼえがある。こういう表現はマリリンには似合わない。

画家のヴァン・ドンゲンが、晩年にブリジット・バルドーを描いている。ヴァン・ドンゲンの芸術家としての衰えがはっきりわかるのだが、バルドーのような女優をカンバスでどう表現したらいいのだろうか、という迷いが見えた。こんなに、いたましい絵はめずらしい。逆にいえば、ブリジット・バルドーは、老大家のヴァン・ドンゲンを混迷させるほどの魅力にあふれていた、と見てもいい。

私の好きな映画は、「私生活」(61年)、「軽蔑」(64年)、「ビバ! マリア」(65年)のバルドー。あとは、まあ、どうでもいい。

私の好きなバルドーのことば。

どんな年代になったって、その年齢に生きてれば、うっとりするわ。

若かったブリジット・バルドーだからこそ、いえることば。