フランス。
パリの国立ピカソ美術館から、ピカソのデッサンがはいったスケッチブックが盗まれたという。(’09.6.9.)
被害は約800万ユーロ(約11億円)相当。
新聞に小さく出ていた記事なので、くわしくはわからないが、1917年から24年にかけて、鉛筆で描かれたデッサン、33点。
私はピカソを主人公にした読みもの、『裸婦は裸婦として』を書いたことがある。
このときの取材で、毎日、ピカソのお嬢さん、マヤにインタヴューした。マヤは気さくな女性で、私が聞くことに対して、じつにいろいろなことを話してくれた。
このときの話で、国立ピカソ美術館ができた裏話を聞いた。なにしろ莫大なピカソの遺産相続をめぐっていろいろと問題はあった。そして遺族に莫大な税金がかかることを考慮して、国家に現物の絵画を納付するかたちで、国立ピカソ美術館が建設された。このとき、残された作品が分配されたのだが、マヤは、ピカソの陶器のほとんどを相続したのだった。ここにも、ある理由があった。
たいへん興味のある話だったが、私はいっさい書かなかった。『裸婦は裸婦として』は、新聞の読者にピカソという画家の生涯をわかりやすく書くことを目的としていたからだった。
ある日、マヤはウイリアム・ペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を見せてくれた。
ウイリアム・ペンローズは、ピカソ研究の権威として知られる美術評論家。
その1ページに、ピカソ自身の手ではげしい斜線が書きなぐってあった。
ピカソは、怒りにまかせて、そのデッサンに「ニセモノ!」と書いていた。この絵を抹殺しようとするかのように。
若い女性の美しいヌードだった。
そのデッサンには見おぼえがあった。戦前の美術雑誌「アトリエ」で見た。解説は、当時の美術評論家、外山 卯三郎。そればかりではなく、戦後もそのデッサンを別の有名な美術雑誌で私は見ている。
マヤの説明では――「ペンローズはおれの研究家などとヌカしていながら、ホンモノとニセモノの見分けもつかないのか!」
とピカソは怒っていたという。
この話をしながら、マヤはいたずらっぽく笑ってみせた。
いつか、この「ニセモノ」を見つけたら、私のHPに掲載したいものだ。まさか著作権侵害にはならないだろうから。
万一、トラブルになったら、マヤのもっているペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を拝借しよう。さて、そうなると、こんどは、あのはげしい斜線が果してピカソのご真筆がどうか、鑑定しなければならなくなって……
やめとこう。
パリの国立ピカソ美術館から盗まれたデッサンのなかに――ウイリアム・ペンローズの選んだデッサンの1枚が入っていないことは確実だが。